歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 急激な戦力ダウンが初優勝の土台に
初のリーグ優勝を果たし、名古屋市内をパレードする中日ナイン
プロ野球の歴史において、これほどまでに人と人との結びつき、チームの団結が語り継がれる優勝はないだろう。1954年に初優勝を飾った中日。創設19年目の悲願だったが、この時間の長さだけが団結力につながったわけではない。また、団結力だけで優勝できるほどプロ野球の世界は甘いものでもないだろう。昨今も「ワンチーム」で流行の感染症に立ち向かう必要性が言われるが、それが人々の団結だけで克服できないのも同様だ。一方で、そもそも団結すること自体が難しい。だからこそ、たとえ結果は出なくても、人が団結していく様はドラマチックなのだろう。そして、もし最高の結果が出れば、そのドラマは人を感動させる上質なものへと昇華されていく。
36年、プロ野球の歴史とともにチームの第1歩を踏み出した中日。拠点は現在と同じ名古屋ながら、親会社は新愛知新聞だった。当時の名古屋には親会社がライバル関係にあった名古屋新聞による名古屋金鯱と2チームが存在していたが、金鯱は41年に翼(東京セネタース)と合併して大洋となり、43年に解散。一方、42年の新聞統廃合例により名古屋新聞は新愛知新聞と合併して中部日本新聞社となり、結果的に中日の親会社となった。
中日は1リーグ時代には優勝はなし。2リーグ分立の50年には既存のチームから選手の引き抜きが加熱、
阪神を中心に多くのチームが戦力難に陥ることになったが、中日の場合は、それよりも前に急激な戦力ダウンに見舞われていた。原因は内紛。チーム名が中日ドラゴンズとなった47年は2位に躍進したが、オフに戦時中から私財を投じて球団を支えていた代表の赤嶺昌志が退団。これに
古川清蔵、
金山次郎、
小鶴誠ら主力が追従した。彼らは“赤嶺一派”と呼ばれ、各チームを転々としながら暴れまわった一方、中日は兼任監督の
杉浦清や投手と捕手の“二刀流”で活躍した
服部受弘らが奮闘したものの、翌48年には最下位の8位そして、そのまま低迷したまま2リーグ制へと突入していった。
ただ、こうした状況は若手にはチャンスだった。48年は
杉山悟、
原田徳光、
国枝利通が新人ながらレギュラーに定着。オフには兼任監督の杉浦に頼まれて、明大の先輩でもある天知俊一監督が就任する。その天知が明大から連れてきたのが右腕の
杉下茂だ。その49年には戦前は投手として活躍していた
西沢道夫が金星から野手として復帰。西沢のいた金星からはプロ野球の創設からプレーしていた“野球名人”
坪内道典、同じく捕手の
野口明も阪急から加わる。若手からベテランまで、のちのV戦士たちが着実に顔をそろえつつあった。ただ、全体的には若いチーム。連勝と連敗を繰り返すなど、まだまだ大味な戦いが続いた。
原点回帰となった53年オフ
2リーグ制となった50年には地元から
本多逸郎が入団。さらに、明大で天知監督の後輩にあたる
児玉利一が翌51年に入団しているが、ともに投手としての入団だった。いずれも52年に野手となり、やがて打線の中心になっていく。投手陣では杉下が50年に27勝、51年が28勝で初の最多勝と、不動のエースとなっていた。チームも2年連続2位。だが、51年オフに天知監督は総監督となり、現役を引退した坪内が監督に。新体制で迎えた52年は西沢と杉山が打撃3部門を占め、杉下も32勝と躍進したが、チームは3位に沈む。翌53年も3位。なかなか勝てない。オフにナインは天知の家に押しかけ、監督への復帰を懇願する。選手たちの暴走ではない。その顔ぶれの中には坪内監督の姿もあった。
迎えた翌54年、ふたたび天知監督の下、チームは再始動。ちなみに、51年からチーム名は名古屋ドラゴンズとなっていたが、共同経営だった名古屋鉄道が離れ、中日新聞による単独経営に戻ったことで、チーム名も中日ドラゴンズに戻っている。初の快挙に向けて、ようやく舞台は整ってきていた。
繰り返しになるが、団結だけでは勝てない。ただ、その力が抜群に強ければ、他を圧倒する原動力となる。天知監督、西沢、杉下、そして助監督となった坪内は名古屋でも同じ宿を取り、暇さえあれば野球談議に花を咲かせたという。
文=犬企画マンホール 写真=BBM