歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 手術からの復帰1年目
1997年、2年ぶりのリーグ優勝を飾ったヤクルト。球団5度目、90年に就任した
野村克也監督となってから4度目の栄光だった。これが結果的には20世紀で最後のリーグ優勝となってしまうのだが、この97年は“ID野球”の絶頂期といえるだろう。
すでに開幕戦については紹介しているが、“再生工場”でよみがえった
小早川毅彦が3打席連続本塁打、これで勢いに乗ったヤクルトは、来日1年目のホージーが38本塁打で本塁打王となり、さらには100打点、20盗塁と機能して、
古田敦也は4年ぶり、
飯田哲也と
土橋勝征がプロ11年目にして初の打率3割をクリアする。投手陣も同じく“再生工場”から
田畑一也が2年連続2ケタ勝利となる15勝、これに
吉井理人が13勝と続き、盤石の投打でチーム83勝の圧勝だった。
ただ、これは数字を振り返っただけの結果論。まったくピンチがなかったわけではなかった。最大の危機は夏場から。独走していたヤクルトを最大14ゲーム差から猛追してきた横浜の存在だった。80年代は、ともに最下位を争っていたような両チームが優勝を争う展開。しかし、すでにヤクルトは黄金時代を謳歌しており、優勝すれば37年ぶりとなる横浜には、世間のムードも味方している雰囲気もあった。そんな横浜との天王山となったのが9月2日、敵地での直接対決だ。そして、この試合の先発マウンドに立ったのが石井一久だった。
石井はドラフト1位で92年に入団。高卒ルーキーながら1年目から一軍のマウンドを経験し、ゼロ勝ながら
西武との日本シリーズでも先発するなど期待の左腕だった。4年目の95年に初の2ケタ13勝を挙げて大ブレーク。だが、翌96年は8試合の登板に終わり、わずか1勝と急失速する。その原因は、左肩関節唇の損傷だった。オフに渡米して手術。迎えた97年も開幕には間に合わず、インディアンスの施設で4月までリハビリを続けた。
一軍に復帰したのは6月。5回2失点でシーズン初勝利を挙げ、下旬から8月の初旬にかけては4連勝もあったが、その後は3連敗と苦しんでいた。この天王山も、ストレートこそ威力があったが、先頭打者に四球を与え、3回裏にも先頭打者に四球、二死からも四球で走者一、二塁のピンチを招くなど、荒れ気味。それでも石井は続く
波留敏夫のバットを折って遊飛に打ち取って、無失点に抑える。そして、結果的には、この3回裏が横浜の唯一かつ最後のチャンスとなった。
リハビリの副産物
ノーヒットノーランを達成し、チームメートから祝福される石井
横浜の強さを象徴していたのは、やはり最終回に君臨したクローザーの“大魔神”
佐々木主浩だろう。ただ、佐々木の登場は勝てるゲームのみ。“大魔神”を呼ぶには打ち出したら止まらない“マシンガン打線”の存在は不可欠だった。
そんな打線を石井は沈黙させる。4回裏も一死から四球を与えたが、すぐに併殺。その後は三者凡退を続ける。一方の横浜も、先発の
戸叶尚が好投。ヤクルト打線が戸叶をとらえたのは7回裏だった。先頭の古田が左前打、一死から
池山隆寛が適時二塁打で先制すると、続く小早川毅彦が2ラン本塁打。続く7回裏、8回裏も三者凡退を続けた石井だが、復帰したばかりでもあり、120球の投球制限で投げており、この8回裏を終えた時点で野村監督に「代わりましょうか?」と打診したというが、「アホ、めったにないチャンスなんやから」と言われて続投。9回裏も三者凡退に打ち取り、121球でノーヒットノーランを決めた。
横浜スタジアムでのノーヒットノーランは開場20年目にして初めて。なお、荒れ気味だった序盤の2回裏を終えたときには「ノーヒットノーランできるかもしれない」と周囲に語っていたという石井。この日がシーズン初完投だったが、試合を終えても「自分の記録よりもチームの勝利のほうがうれしいですけどね」と余裕のコメントを残している。
また、インディアンスでのリハビリには、さらなる副産物もあった。それまでの選手生活は既定路線のようなものだったというが、メジャーの環境に触れたことで「メジャーに行きたい」という明確な夢が生まれ、それが21世紀のメジャー挑戦へとつながっていく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM