歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 “ブルーサンダー打線”が爆発

90年のオリックス・門田博光。ヘルメットに「Braves」の文字が輝くが、この年限りで消え去ることに
プロ野球の結成に参加しながらも優勝は遠く、“灰色”などと揶揄されながらも、
西本幸雄監督の下で黄金時代を築いた阪急については紹介した。
上田利治監督となってからは初の日本一も経験し、黄金時代の輝きも増していく。ニックネームはブレーブス。そんな伝統のチームが、オリックス・ブレーブスとして新たな歴史を歩み始めたのは、1989年のことだ。すさまじい勢いで時代が変わろうとしているように見えた時期だった。時代も、昭和から平成へ。同じパ・リーグでは、南海もダイエーとなった。
ただ、南海は前年の88年から身売りの噂があり、ダイエーとなって大阪から九州は福岡へと移転していったが、オリックスは変わらず本拠地を西宮球場に置いたまま、ブレーブスのニックネームも変わらず。
山田久志、
福本豊ら阪急の投打を象徴する2人は阪急とともにグラウンドを去ったが、南海で転居を嫌がって関西の球団への移籍を希望していた門田博光を獲得し、
松永浩美、
石嶺和彦、
ブーマーらが並ぶ重量打線も強化された。そんな“ブルーサンダー打線”の爆発もあり、オリックスは1年目の開幕から快進撃を見せる。
一時は独走かと思われたが、後半戦に入ると勢いに陰りがみられるようになり、8月中旬には2位に転落。それでも6年目の
星野伸之や新人の
酒井勉ら若い投手たちが踏ん張って、残り9試合でマジックが点灯する。だが、オリックスへの譲渡が発表された前年の10月19日に
ロッテとのダブルヘッダーを戦い、僅差で優勝を逃した近鉄が、この89年は
西武とのダブルヘッダーに連勝して首位に浮上。近鉄の執念が勝ったのか、勝率わずか1厘差、ゲーム差ゼロで2位に終わる。それでもブーマーが2度目の首位打者、3度目の打点王で打撃2冠、酒井が新人王に輝くなど、上々のオリックス元年だったと言えるだろう。
翌90年も打線の爆発力は変わらず、最終的には初の打点王となった石嶺が37本塁打、4年目の
藤井康雄も37本塁打、プロ21年目で42歳の門田も31本塁打を放って、チーム186本塁打はリーグ最多。だが、パ・リーグでは西武が王座を奪還、オリックスは2位で、12ゲーム差と大きく引き離される結果に終わる。ファンも後半戦に入ってから動揺し続けていた。ただ、それは西武の独走を許したためではない。オリックスはシーズン半ばの8月13日、翌91年に本拠地を西宮からグリーンスタジアム神戸へ移転すること、そしてブレーブスのニックネームを廃止することを発表したのだ。
胎動は阪急とともに
ファンには、まさに青天の霹靂だっただろう。西宮球場の胎動は1934年にさかのぼる。阪急電鉄の創始者で、のちに大臣も歴任した小林一三は、ワシントンから電報で球団の創設を指示しているが、その内容こそ「即刻、職業野球の球団をつくり、西宮北口に球場をつくれ」というものだった。阪急は36年1月23日に創設され、プロ野球は全7球団で始まっているが、自前の球場を持つ計画を持っていたのは阪急だけ。その12月に球場の建設が始まり、わずか5カ月で完成。日本で初めて2階席が設置されるなど斬新で画期的な球場は、その後もファンに親しまれてきた。
ブレーブスのニックネームは47年から。阪急を失って2年も経たないタイミングで、残った西宮球場、そしてブレーブスが、ともに失われるのだ。激動が一気に押し寄せる衝撃は大きいものだが、それが時間差で攻め寄せてくるのも、また別種の苦しさがある。これに反対するファンは署名運動も展開。中には、ペナントレースの結果よりも反対運動を優先していたファンもいたかもしれない。それもまた人情だろう。
だが、オリックスにとっては、阪急を買収したときからの既定路線だった。ブレーブスの終焉とともに、81年に復帰して以来、阪急とオリックスをまたがって指揮を執り続けてきた上田監督は退任。オリックスはブルーウェーブとなり、神戸へ移転していった。オリックスは2005年に近鉄と合併してオリックス・バファローズとなり、ブルーウェーブも消滅。その05年、西宮球場も歴史になった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM