一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 引退か移籍か

独特のトルネード投法から重い速球を投げた
今回は『1971年10月4日号』。定価は90円。
7連覇に秒読みが進む
巨人。毎日、試合が始まるとすぐさまブルペンに向かい、ひたすら投げる男がいた。コーチの指示ではない。自らの意思でだ。
ただし、開幕から試合の登板はほとんどなく、120試合が終わった時点で8イニング、106球だけだった。
普通であれば、二軍だが、よほどの大ケガでもなければ、この男を落とすわけにはいくまい。
城之内邦雄。1962年の入団から7年で129勝を挙げ、「6連覇のうち4連覇は俺がやった」と胸を張るエースのジョーである。
腰の故障もあって69年は4勝に終わったが、70年は後半からかなり回復し、7勝。この71年は、ほぼ完治していたという。
決して口数の多いタイプではない城之内は、いつものようにボソボソと言う。
「スピードもあるし、まだ投げさせてくれたら、けっこういけると思うよ。走り込んでいるからスタミナはあるし、球も切れている」
ただ、城之内がいくら「投げられる」と言っても、なぜか首脳陣は耳を貸さなかった。
城之内のプライドをズタズタにしたのは、8月下旬、後楽園球場での
中日戦だった。
城之内の名前が先発としてスコアボードに載った。ただし、
「六番ライト・城之内」
川上哲治監督は、もともと当て馬をほとんど使わなかったという。しかも、投手は初めてだった。
城之内は、
「あのときは頭にきた。だけど、考えようによっちゃ、あれで踏ん切りがついたようなもんだよ」
と話した。
その夜、夫人と身の振り方について相談。夫人は「もし他球団から話が来てもお断りして」と言ったという。
ただ、城之内は、
「俺はほかの球団に行ってでも、もう一度いちから出直してやろうと思っていた。見返してやろうと思っていた。だけど、都落ちして細々と投げていくんじゃ、落ち目だもんな。女房はみっともない姿さらしてくれるなというけど、俺はいまだってみっともない姿だと思っているんだ」
と語り、進退を悩んでいる様子だった。
川上監督がどういう意図で、功労者の城之内を干したのかは分からない。
もともと厳しい指揮官ではあるが、この起用法は腑に落ちない。城之内は頑固ではあったが、チームへの忠誠心は人一倍あった。
名将川上には失礼ながら、ややおごりがあったのかもしれない、
いずれにせよ、城之内は、もはや戦力としては見られていなかった。現状は西鉄から誘いがあるようだが、移籍を断ったら引退となりそうだ。
では、また月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM