歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 味方の貧打と拙守もあって
1998年に
ロッテが喫した悪夢の18連敗については紹介した。特に17連敗となった7月7日、“七夕の悲劇”と言われる試合は、20世紀を知るプロ野球ファンには記憶に新しいことだろう。ただ、このようにチームの連敗であれば、ともに苦しむチームメートの存在もあり、まだ救いがありそうな気がする。それでもロッテの選手たちが苦しむ姿は印象に残り、同時にファンの心を震わせた。
だが、これが投手の個人記録だとすると、選手の気持ちを想像しただけでも、いたたまれない思いにさせられる。それが温厚な人柄であれば、なおさらだ。周囲には励ましてくれるチームメートもいただろうが、そんなチームは自分が投げなければ勝っている。自分が投げると勝てない。これを繰り返すこと729日、3シーズンにまたがって36試合に登板して、ロッテの連敗より10敗も多い28連敗を記録したのが権藤正利だ。
身長177センチながら、体重わずか60キロという細身の左腕。連敗で激ヤセしたわけではない。甲子園への出場はなかったが、その細腕から繰り出されるタテのカーブ、いわゆる“懸河のドロップ”は高校生のレベルを超えていると騒がれて53年に洋松へ入団、先発の一角を確保して15勝で新人王に。だが、松竹が球団の経営から離脱して大洋に戻った55年に、悪夢が始まる。いや、ひと晩で醒める悪夢などという生やさしいものではなかっただろう。ちょっとした生き地獄のようなものだったのではないか。
最初はリリーフだった。7月9日の
広島戦(熊谷市営)。当時は先発がメーンでエース格の投手でも、ピンチでリリーフに立つのは当たり前。3イニングを投げて自責点1で敗戦投手に。翌10日もリリーフで4イニングに投げて、やはり自責点1で連敗。9日から閉幕まで16試合に登板したが、勝ち星はつかず、8連敗でシーズンを終える。最終的にはシーズン3勝21敗。この21敗はリーグ最多だ。ただ、チームが弱かったこともあり、それまでも11連敗を記録していた権藤。だが、翌56年のペナントレースが開幕すると、あっさり4連敗で自己ワーストを更新する12連敗。このときも8回を投げて自責点ゼロで、味方の貧打と失策に泣かされた。6月17日には連続シーズン19連敗のプロ野球新記録。結局、56年は1勝もできないまま0勝13敗で終えた。
七夕の歓喜

連敗を止めて胴上げされる権藤
「もうダメです。投手をやめてバッティング(打者)に転向しようかと思っています」と、権藤の口からも弱音がこぼれた。無理もない。続く57年も開幕から3連敗で、24連敗の世界新記録。6月2日の
阪神戦(甲子園)では味方の失策で制球を乱した。「あそこに打たせた俺が悪い」(権藤)と、これで28連敗。だが、そこから立ち直る。もともと弱かったこともあるが、完全に胃を壊し、これを入院して徹底的に治療。好物の甘いものも断った。投球ではドロップの割合を増やし、打者のうち気をそらすことを心掛けるように。そして奇しくもロッテ“七夕の悲劇”から41年前の7月7日、後楽園での
巨人戦ではシュートも冴えて、被安打4の完封勝利。チームメートから胴上げされ、対戦した巨人からも祝福された。
この57年、権藤は最終的に12勝17敗と3度目の2ケタ勝利と、復活したかと思われたが、翌58年から徐々に失速し、その翌59年は勝ち星なし。それでも入院してヒジ痛を治療、規則正しい生活で胃の調子も改善させて、迎えた60年には12勝を挙げて大洋の初優勝、日本一に大きく貢献した。だが、これが大洋での最後の2ケタ勝利となる。そして64年に東映、65年には阪神へと移籍。73年までプレーを続けた権藤だが、逆風は止まらなかった。これについては、また別の機会に。
文=犬企画マンホール 写真=BBM