「中日の宮下」といえば、「クロマティに殴られた投手」として野球ファンの記憶に今なお鮮明だ。中日・星野仙一新監督時代のファイトあふれる中継ぎ右腕だった宮下氏は現在、白球を投げた腕で白いお米を運んでいる。倉庫がある府中市場(大東京綜合卸売センター)の一角を、同級生のパンチさんが訪ねた。 ※『ベースボールマガジン』2020年4月号より転載 「行け!」というとき必ず肩を叩かれて……
1987年6月11日、
巨人-中日戦。0対0のまま、試合は7回裏に入った。5回からマウンドに上がった中日・宮下昌己投手が二死から打席に迎えたのは、四番・クロマティ。宮下さんの投じた球は相手の背中に当たり、クロマティは「帽子を取って謝れ」とゼスチャーで要求した。帽子を取らなかった宮下さんに激高したクロマティはマウンドに駆け寄るや、頬に右ストレートを一発。33年経った今なお語り継がれる、大乱闘事件である。
パンチ 宮下君といえば、あのシーンがどうしても出てくるんだけど……。まさか仕事の名刺にあの写真を使っているとは思わなかったよ(笑)。あれにはどんな伏線があったの?
宮下 あの試合はね、2年目の桑田(
桑田真澄)が初回からいいピッチングをしていたの。それでウチの落合(
落合博満)さん、宇野(
宇野勝)さんあたりがいいようにインコースを攻められて遊ばれていてね。そういう厳しいコースを攻められた野手は、自分とこのピッチャーにも「お前ももうちょっと厳しいところを攻めてくれよ」っていうバランス感覚を求めるんだよ。
パンチ 勝負事に遠慮はいけないけど、2年目の19歳、20歳の少年がベテランに対して「それはどうなの?」ってムードがあったわけだ。
宮下 あった、あった。で、「ウチのピッチャーも行ってくれよ」っていう雰囲気になったとき、そのお鉢が回ってくるのがだいたい俺で……(笑)。
パンチ 今だから言えるけど、あのころはパ・リーグでも「当てろ!」とか言ってたよ(笑)。
宮下 1回当てられたら1回(お返し)ねって。で、あのときも他にピッチャーはいっぱいいるのに、また投手コーチに後ろから肩叩かれてさ(笑)。行くしかないから、行ったんだけど。ところがキャッチャーが途中、中尾(
中尾孝義)さんから出始めの
中村武志に代わっていてね。まだ慣れてないじゃない。だから俺が2アウト取って一塁のベースカバーに行ったあと、ちょっと武志のところに寄って、「次、初球行くから当てたあと頼むぞ」って言ったんだよ。「そのあと、(クロマティを)止めてくれ」って意味だったんだけど、アイツ全然止めないで、(クロマティに)当たってこぼれたボールを拾いに行ったからね。そのボールを「止めに行ってくれ」って頼んだわけじゃない(笑)。
パンチ(笑)。
宮下 そのあとのミーティングで武志、仙さん(星野仙一)にボコボコにされてたけどね。
パンチ 宮下君がそういう役を仰せつかったのは、監督に度胸の面でも信頼されていたということだよね。
宮下 野手との信頼関係もあったよね。ミヤなら行ってくれるって。野手の先輩たちも俺が投げるとき、「ミヤがノッてるから、なんとか勝たしたれ」って打って、守ってくれたから。

87年6月11日に熊本・藤崎台球場で起こった、あまりにも有名な巨人・クロマティ(右から2人目)との乱闘シーン
パンチ だけどバッター側からすると、たまたま当てられたのか、ぶつけに来られたかっていうのは、ピッチャーの目を見てると分かるよね。
宮下 分かるね。俺も打席に立ったとき一度、当てられたの。普通、ピッチャーに当てないじゃない。「俺、さんざんやらかしたから、しゃあねえな」って思ったけど、分かった(笑)。
パンチ 目と目が合うよね。普通ピッチャーはキャッチャーのミット目掛けて投げるところを、当てるときはパッと目が合う(笑)。
宮下 だから分かるんだって思った。
パンチ 俺流に言ったら「自分の心は一つです」じゃないけど、あのときの写真や映像は、みんなが永遠に覚えてる最高のシーンだよ。
宮下 いまだにいろんな媒体で取り上げてくれるしね。それもまた、ありがたいよ。人によっては殴られた話なんかに触れちゃいけないんじゃないかって思うみたいだけど、全然。どんどん触って、いじってって感じ(笑)。
パンチ セールスポイントの一つだね。
宮下 あれがきっかけで、ファミコンのプロ野球が後ろからの映像に変わったんだよ。しかも、乱闘モードまで搭載されて(苦笑)。
パンチ 最高じゃん(笑)。
宮下 俺はリリーフだから、スタミナがないんだよ。なのにファミコンやってる子どもたちは、クロマティの打順になるとすぐピッチャー交代して俺を出すんだ。「それは違う。(俺の)使い方を間違ってるぞ」って説教したことがある(笑)。
パンチ あのモードにしたの、宮下君だったんだね(笑)。昔、プロレスのデストロイヤーの四の字固めが横から映してもなんだか分からないから、上からの画面ができたとかさ。欽ちゃん(萩本欽一さん)が走り回って、マイクで声を拾えないからピンマイクができたとかさ。それと同じだもん。すごいよ。でも宮下君は、当時コントロールってどうだったの?
宮下 器用なほうじゃないんで、なまじ覚えたての変化球とかストライクゾーンに行ったらパンパン打たれるから。もうバラバラ状態で、「ボールに行く末聞いて」って感じだった。
パンチ バッターは、そういうピッチャーのほうがイヤなんだよ。
渡辺久信(
西武)なんかも、そんな感じだった。阿波野(
阿波野秀幸=近鉄ほか)みたいにキレイだと、絶対当たらないから次踏み込めるってなるけど、渡辺久信はもう怖くて、こっちもカカトに体重かかっちゃってさ。
宮下 コントロールっていっても、大まかだったよ。落合さんとベンチで話したときに、「Aというピッチャーは真っすぐしかなくて、なんとなくのコントロール。その代わり170キロを放ります。Bというピッチャーは真っすぐは130キロ。でもそのほかに七色の変化球を自由自在に投げ分けます。どっちが打ちづらいですか?」って聞いたんだ。そしたら落合さん、「そのBっていうピッチャーの持ち球は130キロの真っすぐと、あとは7種類でも何十種類でもいいんだけど、曲がる球だろ。だとしたら、俺にとっては真っすぐと曲がる球の2種類しかないんだ。狙えば打てる」って言うの。「Aのほうが打ちにくい。だからお前、小賢しい変化球なんか覚えるんじゃないぞ」ってクギを刺されてね。
パンチ 最高だね、落合さん。
宮下 それから開き直ってじゃないけど、細かいこと気にしなくなったの。
星野監督に殴られた一発一発が俺の勲章

星野監督1年目の87年には背番号を16に変え、セットアッパーとして50試合に登板した
パンチ ドラゴンズ時代の素敵な思い出も教えてよ。
宮下 一番は星野監督の下で使ってもらった、大事にされたことかな。殴られたこともあったけど、その一発一発が勲章だしね。だって数ある選手の中で、そうそう殴られた選手なんていないんだから、やっぱりうれしいよ。
パンチ 星野監督だって、殴る人と殴らない人いたでしょう?
宮下 殴らないほうが圧倒的に多いよ。
パンチ その中で殴る人っていうの�
蓮△笋辰僂蠅△訥�戰�奪張泪鵑世箸�∧��辰討�譴訖佑世辰討海箸世�蕕諭��箸覆辰討蓮�イ蕕譴燭曚Δ�嚢發了廚そ个世茲諭�
宮下 本当に自慢だよ。
パンチ 星野さん、チームに対してとか、何かに気合を入れたいっていうのもあったんじゃない?
宮下 俺を殴ることによって、他のピッチャー陣とか野手陣に何かメッセージを送ってるというのかな、そういう役割を果たしていたときは明らかに分かったよ。だからまあ、しゃあねえかって。われわれの時代って、そういう時代じゃない?
パンチ 俺も亜細亜大のキャプテンだったけど、監督に言われたよ。「チームをまとめようなんて考えなくてもいい。100人の部員の中で、常にお前一番真っ黒でいろ」「チームが落ち込んでいるときは、お前を殴る」って。それは最高の思い出だよ。
宮下 そういう役割って、誰もが担えるものじゃないから。やっぱり、選ばれし者だと思うよね。
パンチ 星野さんは中日、
阪神、
楽天とちゃんと自分の役割も使い分けていたよね。頭のいい人だったね。
宮下 選手、スタッフをその気にさせる術に関しては、天才的だったね。門限は厳しかったけど、「破るな」って言い方をしないんだ。「うまくやれ」って。あと、妻帯者には奥さんの誕生日に花束を贈るんだよね。独身選手には誕生日にプレゼントするんだけど、俺は誕生日が1月4日でオフだから、何ももらったことがなかったの。そうしたら、あるときシーズン中にマネジャーから「ここに行ってこい」って言われて紳士服の展示会場に行ったら、一着30万、40万するようなスーツばかりでさ。作ってもらったんだけど、俺、いまだにそのスーツ一回も着ていない。
パンチ えーっ!! なんで? もったいない!!
宮下 着れない、着れない!! 棺桶入るとき、着させてもらおうかなって。
パンチ シビれる話だねえ(笑)。
1989年オフ、中日の納会に参加した宮下さんは星野監督に呼ばれ、西武へのトレードを告げられる。当時の西武・
根本陸夫管理部長は日大三高出身で、宮下の大先輩だった。
「お前、悪いのう。根本さんの意向だから、我慢して行ってくれ」
星野監督の、そのひと言で“気持ちよくなった”宮下さんは、「いえ、行ってきます!」と思わぬトレード話を受け入れたのだった。
配達の仕事は現役時代から
パンチ 中日と西武の違い、あるいはセ・パの違いって感じた?
宮下 やっぱり一番は、DH制があることだね。ピッチャーが打席に入らないってことは、当てられる心配がない(笑)。ホント、真面目にそう思った。あと、ピッチャーが攻撃的。野手もそうで、荒っぽいといえば荒っぽいけど、すごくいい野球をやってるなと思ったよ。セはきっちりきっちりしすぎというか。パは開放的でいいなあって。
パンチ 西武は2年だっけ。
宮下 そう。そのあと「トレードの話が4球団あるけど、どうする?」って根本さんに言われてね。ちょうど親父の具合が悪くなってきたころで、やっぱり手伝わないと、継がないとまずいかなというのがあった。男手が俺一人しかいなくてね。でも、話のあった球団が全部西のほうだったから……。
パンチ プロ野球に入ったときから、引退したら親父のあとを継ぐっていうことは決めていたんだ?
宮下 おぼろげにね。
パンチ で、ここはもう、このあたりで……と思ったわけだ。
宮下 まあ、いつまでもできるものじゃないとは分かっていたよね。そもそもプロで通用するなんて思っていなかったし。ましてや高卒で甲子園にも行っていないんだから、どうせ1、2年でクビだろうと。でもせっかくのチャンスだから、この世界でどれだけできるか勉強させてもらおう。それだけで、俺はラッキーだ。その先、生きていけるわって思っていたから。
パンチ ある意味、いい野球だった? 悔いはなしっていう。
宮下 できすぎぐらい(笑)。だってそんな、一軍でほうれるなんて夢にも思わなかった。一軍にも行けずに引退していく選手のほうが多いのに。
パンチ 引退して家業を継ぐって言ったとき親父さん、なんて言ってた?
宮下「今から継ぐようないい商売じゃねえぞ」って言ってたけどね。そう言いつつも、アドバイスはくれた。
パンチ 最初に任された仕事は何?
宮下 配達。前々から親父の具合が悪かったから、シーズンオフになると代わりに配達やってたのよ。
パンチ うわあ、いい話だなあ。
宮下 客先もルートも分かっていたからね。
パンチ じゃあ地元で、みんな応援してくれたんじゃない? 今回は踊るページになるよ!
宮下 踊らせて、踊らせて(笑)。
パンチ 配達も、トレーニングの一つになっていたのかもしれないね。
宮下 こういう市場では朝が早いからさ、朝6時ごろに起きて行くと「遅いんだよ、お前」なんて言われてね。やっぱり周りはみんな、ガキのころから知ってるから。
パンチ 白いものって朝が早いってよく聞くよね。米、酒、豆腐かな。
宮下 うまいこと言うね(笑)。
パンチ 今は小売りしていないの? 卸だけ?
宮下 そう。東北とか関西とか、契約している米農家さんから米を仕入れて、飲食店とか学校や会社の寮といったお客さんに配達するのが俺の仕事。常に安定供給できるように、というところだね。
パンチ この商売の難しさはどんなところ? 時代の流れで変わったこともあるでしょう。
宮下 酒屋もそうなんだけど、昔は食管法っていうのがあって、商売が守られていたのよ。各地域にお米や酒屋はこの1軒で、って役割分担みたいなものがあったんだけど、今は誰でも売れるようになったから。コンビニでだって、米を売っているでしょう。これはやっぱり、厳しいよね。
パンチ そこで負けずにやる秘訣は、どんなところなの?
宮下 やっぱり人間関係。値段勝負になっちゃったら誰でもできるけど、そうじゃなくて人間を売るというか。
パンチ 今日はいいね! それなんだよ。われわれもそう。大きな事務所に「お宅からお笑い芸人、誰か一人呼んでよ」じゃないんだよ。「パンチ君を」って来るからね。
宮下 誰にでもできる仕事じゃさ、じゃあ俺じゃなくてもいいじゃんってなるもんね。
パンチ 昔ながらのお友達がつながっているわけだ。
宮下 お客さんも米農家もそうだね。きっちりやっていれば、そこからまた紹介もしてくれるし。
パンチ 俺たちも同じ、同じ。
宮下 ウチはずっと真面目に、あくまでも適正価格で商売してる。地味で地道だけど、商いはそれしかないと思うしね。
子どもが10人入ったら教科書10冊分の勉強に
パンチ 休みはあるの?
宮下 日曜日。そこで中学生の、『東京青山シニア』って硬式野球の監督をしているんで、教えに行ってるよ。
パンチ そこのモットーはなに?
宮下『頑張る時は、いつも今』。東日本大震災のとき、「今この状況で、自分たちが野球の練習なんかやっていいのか」っていう空気が全国的にあったじゃない。
パンチ 阪神淡路のときもそうだったね。
宮下 ウチの親御さんたちからもそういう相談を受けたのよ。俺、そのときに思った。いや、そうじゃない。自粛して何になるんだ、と。生きている者が今できることを一生懸命やるんだと教えなくてどうする。明日は俺たちかもしれない。だから今、野球ができることは奇跡だと思わなきゃいけない。それなら今日一日、一生懸命野球をやろうよ。頑張るのは今だよって。
パンチ いいねえ。子どもたちを指導するとき、気を付けていることは何?
宮下 若い後輩とかスタッフには、「お前何べん言ったら分かるんだ」とは絶対に言うんじゃないぞって言い聞かせてる。よくいるじゃない。
パンチ いる、いる。
宮下「コイツ、何回言っても分からないんですよ」って指導者にはね、「何回言いました?」って。「100回言って分からなかったら、200回言いましょう。200回言って分からなかったら、1000回言いましょう」。「それで分からなかったら、あなたの伝え方が悪いんじゃない? 変えてみましょうか?」って。
パンチ そうなんだよ。そうやって怒鳴っている指導者は、「僕はバカですよ」「僕の言っていることは子どもたちに伝わっていないんですよ」って言っているようなものなんだよね。
宮下 指導者が偉そうにしてるけど、子どもたちの成長を見ていると、逆にこっちが育てられてるって思うよ。
パンチ その言葉、よく聞くけど本当にそういうことだよね。
宮下 ウチの子たちは中学生だから、つい昨日までランドセルを背負っていた子たちを面倒見るわけじゃない。その子たちが3年間成長した姿を見たらうれしいし、10人入って来たら10冊の教科書を渡されて、「お前、これを3年間でどうにかせえよ」って叩きつけられたようなものだから、こっちも真剣にやらないといけないしね。
パンチ 面白れえ!! 宮下君の話、最高!!
宮下 小さな先生に俺らが育てられているみたいな感じだよね。
パンチ 今後の夢はなんだろう? なんか、たくさんありそうだね。
宮下 教え子かなあ。野球っていつまでもできないじゃない。だからやっぱり野球を通した人間形成は大事にしたいし、俺の教え子にはみんな、“いい男”になってほしいと思うよ。
パンチ あー! なんか今日は、俺が求めている言葉がどんどん出てくるよ。やっぱり同い年、55歳、いいねえ!!
パンチの取材後記
僕と宮下君は、同じ昭和39年生まれの55歳。今どき、このトシになると、みんな何かに疲れちゃっているものだけど、宮下君は違いましたね。仕事にも、日曜のシニア指導にも燃えていました。白髪もシワも出てきて、ちょっぴり猫背っぽくなっていたけれど、いい目をしていましたよ。
対談の中でも僕がいつも思っていること、期待している言葉がポンポン返ってきました。ホント、いい男です。これからの野球界を、もっと大きく言えば日本を背負う子どもたちにピッタリの、素敵な指導者だなと思いました。中でも一番心に響いたのは、「教え子には“いい男”になってほしい」というひと言。いやあ、素晴らしい。
お互い体に気を付けて、今度はプライベートで、調布で飲みたいなと思いました。あと宮下君、こんなにしゃべりがうまいとは思わなかったよ。2人でYouTubeやらない?(笑)
●宮下昌己(みやした・まさみ)
1965年1月4日生まれ、東京都出身。日大三高からドラフト6位で83年中日に入団。86年は40試合、87年は50試合に登板。87年は5勝2セーブの好成績を挙げる。同年6月11日の巨人戦(熊本・藤崎台)でクロマティと乱闘騒ぎとなったことがあまりにも有名。90年に西武へ移籍し、91年限りで引退。通算成績は117試合、9勝12敗3セーブ、防御率3.31。現在は家業の「宮下商店」でお米の卸販売業を営みながら、「東京青山リトルシニア」監督も務める。
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年
オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=長尾亜紀