『阪急ブレーブス』が球団経営を譲渡して1989年に『オリックス・ブレーブス』が発足した。91年にはチーム名を改め、『オリックス・ブルーウェーブ』となり、本拠地も西宮から神戸へ。そして今年で“神戸移転”30年の節目を迎えた。『阪急』から『オリックス』へ、そして『ブレーブス』から『ブルーウェーブ』へ──。球団史に刻まれた2つの変遷の中で、ブルーウェーブの歴史に名を刻んだスラッガーが、同時の思いを振り返る。 新ユニフォームと本拠地移転

藤井康雄(左)は、ライトスタンドに詰めかけたファンに応えるべく、多くのアーチをかけた
ミスター・ブルーウェーブ。
藤井康雄は、その称号にふさわしい存在感がある。藤井の現役時代は1987年(昭和62年)から2002年(平成14年)の16年間にわたっている。一方、オリックス・ブレーブスが、ブルーウェーブへと生まれ変わり、新たな歴史をスタートさせたのは、91年(平成3年)のこと。近鉄との球団合併でバファローズとなり、ブルーウェーブの名に別れを告げるのは、04年(平成16年)のことだ。
つまり、藤井は自らの全盛期をブルーウェーブの歴史の中に刻み込んだ、まさに一時代を築いたスラッガーだった。現役時代を通し、2ケタ本塁打13度、30本の大台超えも3度。ブルーウェーブでの14年間に限った記録で比較しても、藤井の193本塁打は、
トロイ・ニールの136本、
イチローの118本も差し置いてダントツだ。
600打点も、イチローの529、
谷佳知の486を大きく上回り、本塁打と打点で、藤井は「青波史上2冠」を誇る。ブルーウェーブの歴史が、ピリオドを打たれていることから、それこそ“不滅の青波記録”の保持者なのだ。
さて、球団の歴史に目を移してみよう。88年(昭和63年)の夏ごろ、まず南海の球団売却がささやかれ、ダイエーへの譲渡が決まった。そして、シーズン閉幕直前、今度は阪急に飛び火。オリックスへの売却が決定した。藤井は当時、プロ2年目。阪急のラストイヤーとなるその年、20本塁打を放って、台頭し始めていたスラッガーも、戸惑いを隠せなかったという。
「南海が先だったでしょ? 自分のチームもそうなった。うわ、大変だ、と……。とにかく、これからどうなっていくんだろうと思ったね」
親会社が変わると、ユニフォームのデザインも、大きく変化した。藤井の入団当時の阪急は、ホームのユニフォームは白地で、胸に筆記体の「Braves」。ビジターでは上下ブルーで、胸に「HANKYU」。いずれも、そのロゴは赤色。ブレーブスといえば、その鮮やかな「赤」のイメージが強かった。
「阪急(でプレーしたのは)2年だけだったし、何十年もやっている人とは、また違うだろうとは思うんだ。でも、赤から黄色とブルー。名前まで変わる。それは、ちょっとだけ抵抗はあったんだよね。なくなって、いいのかと」
新たなユニフォームは、当時としては、色調が明るく感じられた。白地のユニフォームの胸ロゴはゴールデン・イエローに、オリックス・ブルーの縁取りで「Braves」。ビジター用は、オリックス・ブルー地ユニフォームに、胸にはゴールデン・イエローで「ORIX」だった。
ただ、藤井にとっては、そのユニフォーム以上に、切実な問題が浮上してきた。オリックス3年目の91年、ブレーブスからブルーウェーブへの改名とともに、阪急西宮スタジアムから、グリーンスタジアム神戸(当時)へ、本拠地が移転することになったことだ。
「戸惑いというより、本拠地が変わったことには、だいぶ抵抗があったね」と、藤井は当時の思いを振り返る。西宮スタジアムは、両翼が91.4メートル、中堅119メートル。これが、神戸では両翼100メートル、中堅120メートルへと広がるのだ。
「神戸の球団になれた」95年

阪神淡路大震災が発生した1995年のリーグ優勝は、街一体となってつかんだ栄冠だった
左中間、右中間が大きく膨らんだことで「僕みたいにホームランを打つバッターには、ホームランがアウトになる。神戸のアンツーカーくらいで、フライを捕られる。ショックだったよ。石嶺(和彦)さんも僕も、調子を崩したんだ」。
その“球場拡大の衝撃”は、如実に数字に表れていた。89年に30本、90年には自己最多の37本塁打を放った藤井が、神戸移転1年目の91年には21本に減少。藤井が挙げた石嶺も、奇しくも藤井の数字と同様に、90年の37本から、91年に21本と低下した。
「だから、西宮から神戸へ移ったとき、当初はマイナスのイメージだったんだよ」と正直な思いを吐露した藤井だったが、その“負の思い”すら一掃される、大きな「転換」となったのが、神戸を中心に、未曽有の大被害をもたらせた、95年の「阪神大震災」だったという。
「震災後ってのは、なんて言ったらいいのかな……。かなりの気持ちの変化があったよね。野球に対する気持ち。それまで、自分が稼いだらいい、いい結果を出して、いい生活のためにというのが、正直大きかったからね。でも、震災を経験してからだね。応援されているんだ、元気を与えてあげたい。そういう部分なんだけど、気持ちの面で大きく変わったかなと思いますね」
当時、神戸・西区にあった自宅は大きな被害はなかったという。それでも、壊滅状態にあった神戸の街を見るにつけ、藤井の心は痛んだ。宮古島での春季キャンプを終え、神戸へ戻ってきた3月のオープン戦。藤井だけでなく、チームの誰もが、神戸での試合開催は無理だと思った。その弱気な心を奮い立たせたのは「こんな時に試合をしないで、何が神戸の市民球団だ」という、宮内義彦オーナーの“大英断”だった。
球場周辺の避難所から、ジャージ姿で、被災者の人たちが球場へやって来る。
「頑張って」「優勝して」──。
スタンドからの大声援に、藤井の心は打ち震えた。被災地の、そして神戸という街の「思い」を込めた「がんばろうKOBE」のワッペンを、ユニフォームの右袖につけたとき「重かったですね」と藤井は言う。
「チームが一つになれたのは、震災からでしたね。あれで、神戸のオリックス、神戸のブルーウェーブになれました。とにかく、何かを見せなきゃいけない。そう思っていました。優勝を経験できて、ホントに何というのか、神戸の球団になれたのかなと思いましたね」
仰木彬監督のマジシャンぶりも冴えわたった95年。毎日のように入れ替わる打線は、130試合で121通り。藤井も、二番から七番まで、あらゆる役割を務めた。
現役通算満塁弾14本は、
西武・
中村剛也、元
巨人・
王貞治に次ぐ、歴代3位タイの勝負強さが物語るように、藤井の現役生活は、まさしく神戸という街で輝きを放った。
「震災のとき、勝たなきゃいけないというより、勝たせてもらっているゲームがあったような気がするね。これは難しいと思ったら、後半に逆転していたりね。目には見えない力を感じたよ」
20年(令和2年)は、神戸への移転から30年目、阪神大震災から25年という節目の年にあたる。オリックスは「THANKS KOBE~がんばろうKOBE 25th」と銘打ち、ほっともっとフィールド神戸で行われる9月の3試合で監督、コーチ、選手たちは「ブルーウェーブ」の復刻ユニフォームでプレーする。
そのユニフォームには、藤井の感じた“神戸との絆”が、刻み込まれているのだ。
取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM 【THANKS KOBE ~がんばろうKOBE 25th~ 開催】
オリックス・バファローズが、今季『ほっともっと神戸フィールド』で開催する全3試合、9月15、16、17日の
楽天戦で『THANKS KOBE ~がんばろうKOBE 25th~』を開催する。1995年1月17日、当時『オリックス・ブルーウェーブ』の本拠�
蓮�生佑鮟韻辰震ち祥④梁臙録漫愃綽澄γ枯�膺椋辧戞�修稜�箸�鵑个蹐�KOBE”を合言葉にリーグ優勝、翌年には日本一に輝き、復興のシンボルとして神戸市民の皆様とともに戦ってから25年。そして球団としては神戸移転30年を迎える2020年シーズンに開催する同イベントで、監督・コーチ・選手が1995年当時のオリックス・ブルーウェーブの復刻ホームユニフォームを着用して戦う。