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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

たった4人の珍しい記録。過去に交流戦なしで全球団本塁打を打った選手は?

 

セ・パ交流戦前後で異なる難易度


12球団本塁打を最初に達成した江藤慎一(太平洋時代)


 広島長野久義外野手が、9月22日の巨人戦(東京ドーム)で、全12球団からの本塁打を記録した。2点を追う4回表、この日が初対戦となったかつての盟友、菅野智之のスライダーを第2打席でとらえ、今季第5号のホームランとしたもの。一時は逆転となる3ランで、広島球団としても、ちょうど8500本目のホームランに当たるメモリアル弾となった。

 長野の、この全球団からの本塁打という記録は、プロ野球39人目の記録。この場合の「全12球団」というのは、正確に言えば「現存する12球団」ということになる。これは、近鉄が消滅し、楽天が新球団としてできたため、「全球団からの本塁打」の対象となるチームが2004年以前と2005年以降で変わってくるためだ。39人の中には、時代をまたがって近鉄、楽天両球団と対戦して両方からホームランを打っている猛者も8人おり、これらの選手は「13球団から本塁打を記録した」ことになる。記録達成時の球団名と合わせて紹介すると、セギノール日本ハム)、ズレータ(ロッテ)、カブレラオリックス)、谷佳知(巨人)、和田一浩中日)、小笠原道大(巨人)、フェルナンデス(西武)、中島裕之(オリックス=現巨人)の8人だ。

 最近では、どんどん達成者が出てきている、この「全球団からの本塁打」だが、かつてはかなり珍しい記録だった。この理由も2005年の球界再編と関連するのだが、セ・パ交流戦ができる前と後では、その難易度が全く違ってくるためだ。交流戦ができてからは、1度移籍を経験し、2チームに在籍すればこの記録に挑戦する権利を得られるが、交流戦ができる前は、セとパで各2球団に在籍しなければこの記録に挑戦する権利が発生しないため、かなり人数が絞られてしまっていたのだ。

 39人の達成者のうち、交流戦の本塁打以外でこの記録を達成した選手となると、わずか4人。うち3人は、交流戦の制度ができる前の選手だ。

 順に紹介していくと、初めてこの記録を達成したのは、「闘将」と呼ばれた江藤慎一。中日−ロッテ―大洋―太平洋と渡り歩き、太平洋時代にこの記録を達成した。そのあとさらにロッテに戻ってプレーしている。この記録以外に、初めて両リーグで首位打者を獲得したことでも知られる選手だ。太平洋時代(1975年)にはプレーイング・マネジャーも務めた人物。ちなみにライオンズ打線は、現在「山賊打線」のニックネームで呼ばれているが、そのニックネームのオリジナルは、この江藤以下、土井正博竹之内雅史など野性味たっぷりの打者をそろえたこのときのライオンズ打線だ。

哀愁ただよう記録だった


 2人目は南海−巨人−日本ハム−中日と移った富田勝。法大時代は田淵幸一(のち阪神ほか)、山本浩二(のち広島)とともに「法大三羽烏」と言われたスラッガーだ。南海に入り、野村克也の前の三番を打つなど期待されたが、門田博光が三番に定着すると下位打線に回されるようになり、藤原満の成長もあって、長嶋茂雄の後釜候補のサードを探していた巨人にトレードになった。しかしさすがに「ポスト長嶋」の期待は重すぎ、張本勲との交換要員の一人として今度は日本ハムへ。ここではしばらくレギュラーを務めたが、最後は大沢啓二監督と衝突、大学時代から仲が良かった星野仙一の誘いもあり、中日に移って現役生活を終えた。タイプとしては中距離ヒッターで、通算本塁打107は、交流戦なしでこの記録を達成した4人の中では最少。最も効率のいい達成者だ。

 3人目は阪急−広島−近鉄−巨人−南海と移り、巨人時代に達成した加藤英司。1970年代を中心とした阪急の黄金時代に長く三番を務めた好打者で、山田久志福本豊との同期入団トリオで大活躍した。さまざまな球団を渡り歩いたことでこの記録にも到達することになったが、他の3人と比較したとき、所属したリーグが偏っているのが特徴だ。加藤がセ・リーグに在籍したのは、広島で1年、巨人で1年と計2年のみ。ここで打ったホームランは計13本だけなのだから、よく各球団相手に打ち分けたと言えよう。

 最後は、近鉄から米球界を挟んでオリックス−中日−楽天−横浜・DeNAと移った中村紀洋だ。近鉄時代以外は、交流戦のある時代に現役生活を送った選手で、達成したのもDeNA時代だが、同一リーグとの対戦のみでもこの記録を達成しているのだから、過去の3人と並んで希少価値のある記録達成者だと言える。

 交流戦という条件をつかわずにこの記録を達成した4選手は、力がありながらさまざまな理由で流浪の野球人生を送ることになった選手ばかり。今ではそんな趣きはなくなってしまったが、かつて、交流戦ができる以前は、「全球団本塁打」とか「全球団勝利」という記録は、すごみと同時に、そこはかとなく哀愁のただよう記録だったようにも思う。

文=藤本泰祐 写真=BBM
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