歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 初めて見るプレーの数々
与那嶺の存在によって、日本の野球のレベルが引き上げられていった
流行の尻馬に乗るのは好きではない。ただ、何年ぶりかで流行しているドラマの名ゼリフから半分を拝借すると、その徹底したプレーを表現するのには最適なのだ。やられたら、やり返す。ただ、倍にして返したりはしない。それには、やり返すのがチームの勝敗につながるプレーというよりも、ラフプレーであるということもあるだろう。倍にしてしまっては事故を呼びかねない。それだけは絶対にしなかった。シンプルに、やり返す。それが
与那嶺要のスタンスだった。
ハワイ出身の日系2世。本名はウォレス・カナメ・ヨナミネで、ニックネームは“ウォーリー”だった。2リーグ制2年目の1951年6月に来日して、
巨人へ入団。戦後、プロ野球が再開してから初めてとなるアメリカ国籍の選手だった。やられたままにしないスタンスは、もともと気が強かったこともあるが、その身の上から「ナメられたら終わり」だと思っていたからだという。たとえば、投手にビーンボールで威嚇されると、一塁側にバントを転がす。当然、投手はベースカバーに入ってくるのだが、そこを吹き飛ばすのだ。ただ、これを“喧嘩プレー”と言われると、即座に否定。「僕はクリスチャンだから、絶対にスパイクの裏(金具)は見せない。ひどいケガはさせないよ。相手を転ばすのもコツがあるの。足の甲でスネを蹴り上げるようにするのね」(与那嶺)と胸を張る。
このような計算され尽した安全なラフプレー(?)は、実に多彩だった。“プロ野球に革命をもたらした男”と表現される与那嶺。現在からは信じられないが、当時は野手のいるところへスライディングすることなど皆無に近かった。誰よりも激しいスライディングで相手を吹き飛ばしながら、大ケガをさせないプレーは衝撃的だったのだ。
デビューは6月19日の名古屋(現在の
中日)戦(後楽園)。2点ビハインドの7回裏、無死一、二塁の場面で、送りバント要員として代打に立った。マウンドにはエースの
杉下茂。来日して以来、まともな練習をしていなかったが、1球目を一塁側に転がしてファウル、
水原茂監督の指示で2球目は三塁側に転がして、そのまま猛然と駆けて内野安打に。9回裏に
樋笠一夫のサヨナラ本塁打で巨人が勝ったが、翌日の新聞で大々的に取り上げられたのは与那嶺だった。当時はセーフティーバントも珍しく、現在では当たり前のプレーだが、こうしたプレーを繰り返していくことで、それに追随する選手も次々に現れ、野球のレベルが底上げされていく。まさに“革命”だったのだ。
超絶テクニックの真髄
1974年には中日監督として巨人のV10を阻むリーグ優勝
簡単にマネできるプレーばかりではなかったのも事実だ。スライディングの際に「グラブをポンと蹴って、中のボールをこぼれさせるのね。一連の動きの中でやるから守備妨害もとられないよ」(与那嶺)。ここ数年はビデオ判定もあるので、意味のないプレーかもしれない。ただ、20世紀のプロ野球には、こうした反則スレスレのプレーで通のファンをうならせるような選手が確かにいた。もちろん、相手のケガを呼ぶようなこともしない。みな与那嶺の“後継者”といえる。
与那嶺は61年まで巨人、62年は中日でプレーして引退。通算の本盗11はプロ野球記録として残る。チームメートの“打撃の神様”
川上哲治と何度も首位打者を争うなど打撃も一流だったが、日本で10年を超えてプレーを続けられたのは、それだけではないはずだ。言葉の壁、文化の違いに苦しむことも多かったが、いつも食事はチームメートと一緒。だが、「納豆は臭いし、刺身や生野菜は怖い。食べられないものが、たくさんあった。あとは汲み取りトイレ。タオルで口と鼻を覆って入ってました(笑)」(与那嶺)。時代は流れ、特に後者に関しては、日本に生まれ育った人であっても現在では一般的な感覚になっているだろう。
日曜日は教会に通い、少し英語が話せたチームメートの
内藤博文が案内役だったが、内藤によれば、与那嶺は「家族が健康でいられますように。チームメートが誰もケガをしないように見守ってください」と祈っていたという。だが、監督となった川上が与那嶺を自由契約にしたのは、衰えだけでなく、言葉の問題でコーチとしても機能しないと判断したためだった。
これは完全なメガネ違いだった。与那嶺は中日の監督として川上が率いる巨人のV10を阻むと、退任してからコーチとしても複数チームを渡り歩き、88年まで途切れることなく指導を続けている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM