歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 プロ入り前からアクシデントの連続

日本ハム、ダイエーで通算1504安打をマークした島田
「盗塁は全部サインでした。でも、ノーサインで走らせてもらっていたら毎年80盗塁はできたと思いますよ」
こう自身の現役時代を振り返るのは、まだ東京に本拠地があった時代の日本ハムをリードオフマンとして引っ張った
島田誠だ。もちろん自慢は俊足だったが、
「(サインの盗塁は)行けそうなときも走れなかったし、カウント的に難しいときでもサインが出たら走らなきゃならない。そういう難しさはありましたね」
そんな苦悩があったことも吐露する。それでも3年目の1979年には自己最多の55盗塁。これが21世紀の数字だとしたら間違いなく盗塁王だ。プロ1年目から2ケタ盗塁は11年も続いたが、当時のパ・リーグは阪急の
福本豊が健在、やがて近鉄の
大石大二郎が頭角を現して、島田は最後まで盗塁王のタイトルはなかった。だが、こうした悲運はプロで始まったことではない。逆風というより、まるで運命の女神を敵に回したかのように、少年時代からアクシデントが多かった。
福岡県の出身。まだ炭鉱も残っていた時代、4歳のときに滑車のロープに右腕を巻き込まれたことで左利きになった。直方学園高では外野手と投手を兼ねていて、南海から投手で誘われたが、
「正直、ピッチャーがイヤでイヤで仕方なかった。プロには打者で行きたかったんで、お断りしました」(島田)
だが、この結論が吉と出たか凶と出たかは微妙なところだ。早大から声をかけられながらも、高校の監督から「どうせ4年で卒業できん」と言われて断念、東京にある大学のセレクションも複数の合格をもらっていたが、「甲子園に行ってないから授業料の免除が無理」と言われて家計も考え断念。地元の九産大へ進んだが、1年生でレギュラーを確保したことで上級生から嫌がらせを受ける。それでも2年間はプレーを続けたが、3年生の春に中退。5月になっていたことで社会人の募集も少なく、どうにか愛知県の丹羽鉦電機に就職できたが、
「練習は仕事が終わってからの2時間くらい。しかも僕の仕事は碍子(電線に使う絶縁器具)を作る作業で、1日1000個がノルマ。集中しなければならないし、扱うのも重い。ヒザの曲げ伸ばしもあって、かなりきついんですよ。でも僕は、それをトレーニングと考えた。1000回もスクワットできるんだからラッキーだって。ニコニコ笑いながらやっていたら、仕事がきつくて島田がおかしくなったと言われました(笑)。ただ、野球部を続けていたら会社がつぶれる、となって解散。どうしても野球を続けたい人のために監督が福岡に、あけぼの通商という会社を作った。味噌漬けとかの行商で、月給は3000円でした(笑)」(島田)
死球で骨折のラストシーン
その後、
中日からドラフトにかけると誘われたが、この76年オフ、中日では島田と同じ左の外野手でもある
藤波行雄がトレードを拒否して残留。この経緯は過去に詳しく紹介しているが、これで島田のドラフトは幻に。島田は頼み込んで日本ハム入団を決めると、1年目の77年から外野の一角を確保した。79年に初めて規定打席に到達して、55盗塁で大ブレークを果たしたが、5盗塁の差で福本の牙城に及ばす。以降6年連続で30盗塁を超えたものの、82年までは福本、83年からは大石、85年は阪急の
松永浩美にタイトルを譲った。この6年間で最もタイトルに近づいたのは81年。盗塁王に加えて首位打者も争った日本ハムのVイヤーだ。
盗塁王のライバルは、もちろん福本。首位打者のライバルは
ロッテの
落合博満だった。8月20日の時点で島田は福本に6盗塁の差をつけてトップ、打率は1分4厘の差で2位だったが、この日の阪急戦(後楽園)で左足首を負傷して離脱。福本に抜かれ、打率は欠場の間に落合の失速で首位に立ったが、最終的には抜き返されて、ともに2位で終わっている。
「ケガがなければ両方、獲れた気がしますし、獲れていたら1度だけじゃなく何度か獲れたんじゃないかな。タイトルって、そういうものです」(島田)
身長168センチとプロ野球選手としては小柄だったが、それが理由で苦しんだのは守備。若手時代は「肩の関節を外したら、あと5センチくらい離れた球が捕れるんじゃないかって真剣に思っていました」という。91年に地元のダイエーへ移籍した島田は、4月に死球で右足首を骨折。これが最後の打席となった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM