西武では出場機会がなく
西武から巨人へ移籍し、その打撃力を表舞台で発揮した
素質があっても試合に出場しなければ、宝の持ち腐れになる。黄金時代の西武で出場機会に恵まれなかったが、巨人へのトレードで長距離砲として光り輝いた選手がいる。デーブ大久保だ。
デーブは水戸商高で甲子園出場はならなかったが、通算本塁打52本と強打の捕手として名を轟かせた。
広澤克実の外れ1位で1985年、西武に入団。金属から木製バットに変わったが目を見張る長打力で、86年は野球留学で1A・サンノゼ・ビーズへ。引率を担当した当時の
和田博実二軍打撃コーチに「デーブ大久保」の愛称を付けられる。高卒3年目の87年に56試合出場で打率.239、3本塁打と頭角を現すが、なかなか一軍定着できない。本職の捕手は
伊東勤が球界を代表する名捕手として君臨していた。打力を買われて指名打者で起用されていたが、
オレステス・デストラーデが89年途中に加入すると、出場機会がさらに減った。
89年に当時イースタン記録の24本塁打と70打点でイースタン2冠王に輝くなどファームでは格の違いを見せている。他球団なら一軍で多くのチャンスが得られたかもしれない。だが、西武は85〜94年までの10年間でリーグ優勝9度と圧倒的な強さを誇っていた。デーブが一軍に入り込む余地がないのが現実だった。
黄金時代の西武は層が厚く、出場機会に恵まれなかった
この状況に親心でトレードを決断したのが、球団管理部長の
根本陸夫だった。92年5月11日に
中尾孝義との交換トレードで巨人に移籍が決まる。大久保は小さなころから大の巨人ファンだった。週刊ベースボールのコラムで、「トレードが決まり一軍の宿舎(熊本)に入った夜。私は部屋のホテルで背番号22のユニフォーム姿を鏡で確認し、にやけ顔で何度も何度も見ました。さらにはそのままユニフォームを着て寝ました。それくらいうれしかったですね。あの日の熊本の夜空は一生忘れられませんよ」と振り返っている。
5月12日の
ヤクルト戦(藤崎台)、ベンチスタートだったが4回に代打で巨人初打席。遊飛に終わったが、もう少し前でとらえていたらホームランになる打球だった。ベンチに帰ると
原辰徳が「少しミスったな。あのバッティングはすごいな!」と褒めてくれた。しかもベンチ全体に聞こえるように声を張り上げてくれたことで、「原さんが言うんだから」という雰囲気になったという。そのままマスクをかぶり、第3打席でセンター前に移籍後初ヒットを放った。
巨人では“不敗神話”も
その後、正捕手に抜擢され、6月に月間MVPを獲得。球宴前までに打率.300、12本塁打を放った。大久保が本塁打を打った試合は勝利する不敗神話が生まれ、そのキャラクターもメディアに注目されて一躍人気者に。ただ、“大久保効果”と騒がれることに関して、「すごくうれしい部分と耳から離そうとする部分があるんです。僕としては“デブがコロコロしながらやっているからみんな面白がっているんだよ”っていう程度にしか頭に置かないようにしています」と当時の週刊ベースボールのインタビューで答えていた。
さらに「一生懸命やって、いい結果が出ないのは実力がないんだからしようがいないんです。だから、僕はいつも後悔しないようにやっている。何かピッチャーに言いたいことがあるときは、どんなにささいなことでもマウンドに行くようにしているんです。2ストライク1ボールと追い込んでいてもね。以心伝心とか言うけど、そんな甘いもんじゃない。お互いに言葉で確認しないと、漠然としたまま投げて、打たれてしまうこともあると思うんです。僕としては不安な気持ちのままでサインを出すのは、たとえ1球でも嫌。0ストライク3ボールからストライクを取りにいく球でも、いい加減にしたくありません」と捕手としての矜持も示していた。
94年、西武との日本シリーズ第4戦では9回二死と崖っぷちに追い込まれたが、
杉山賢人から同点アーチを放って日本一に貢献した。ただ引き際は早かった。95年に足首を骨折した影響で14試合出場にとどまると、同年限りで現役引退。28歳の若さだった。
引退後は西武の打撃コーチ、
楽天の二軍監督を務め、15年は一軍監督に就任した。野球以外にもマルチな才能を発揮し、16年には食品衛生管理者の資格を取得して新橋に居酒屋「肉蔵デーブ」を開業。野球評論家、タレント、ユーチューバーと幅広く活動している。
写真=BBM