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平成助っ人賛歌

「一番凄い投手」と落合博満や伊東勤が絶賛した“オリエント・エクスプレス”郭泰源/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

西武と巨人が激しい争奪戦


落合も驚嘆させる投球を披露した郭


「初めて私に本物のスライダーの衝撃を与え、完璧に抑え込んだ男。それは郭泰源である」

 落合博満は現役引退翌年に『週刊ベースボール』の連載「プロフェッショナルたち」の中で、ひとりの助っ人投手について語っている。「超一級の上にもう一つ『超』がつくスライダーには感服させられた。本物のスライダー、私といえども攻略の糸口さえ見いだせない強力なウイニング・ショットだった」なんてさすがのオレ流も脱帽。2年連続三冠王、2年連続50本塁打、プロ野球記録の出塁率.487、得点圏打率.492、9歳上の信子夫人と落合が日本最強打者として君臨した1985年・86年の郭との対戦成績は、通算12打数1安打とほぼ完全に抑え込まれた。

 当時、西武で郭とバッテリーを組んだ伊東勤も「同じくらい球の速い投手はいる。いいスライダーや変化球を投げる投手もいる。でもやっぱり質が違う。比較できる投手はなかなかいないですね」(Number1005号)とナンバー1投手だと絶賛している。

 人呼んで“オリエント・エクスプレス”。母国台湾では“東方快車”と呼ばれた右腕は、84年開催のロサンゼルス五輪出場権を懸けたアジア大会の韓国戦で、5回から延長13回までの9イニングを投げて台湾チームを勝利に導いた。さらにその1時間後の日本との同率決勝戦にも郭は先発登板、なんと9回2安打完封勝利という超人的な投球を披露する。対戦した日本代表チームの打者も、高低を正確に投げ分ける150キロ台中盤から後半の剛速球と、真横に高速で滑るように消えるスライダーには手も足も出なかった。対戦相手がベンチで「打てる気がしねぇ……」なんて心を折られる規格外のアマチュア投手。この「江川卓クラスの怪物」「プロ野球でも20勝は間違いなし」と日本で報じられた22歳の逸材にはもちろんNPB複数球団、さらにはメジャー・リーグからもスカウト陣が駆け付ける。

 最終的に高校時代から郭を追っていた西武と、母国の英雄・王貞治が監督を務める巨人の一騎打ちに。なぜか『長嶋茂雄氏が160キロ男郭泰源獲りに乗り出した』(週刊宝石84年8月10日号)なんて、どさくさにまぎれて週刊誌が当時4浪中のミスター球界復帰説をぶっこむほどのオリエント超特急フィーバー。人脈、金脈が絡み合い、郭の親族さえも巻き込んだ多額のジャパンマネーが飛び交う仁義なき争奪戦を制したのは、西武だった。当時交渉にあたった元西武球団代表・坂井保之氏の著書『西武と巨人のドラフト10年戦争』(宝島社)には、入団発表直前のホテルの一室で坂井氏が郭に巨人から渡された白紙の小切手を破らせるシーンが出てくる。

厳しい立場でエース級の働き


西武投手陣で水中トレーニング


 1億円を超える契約金に加え、所沢に4LDKのマンションを用意。身の回りの世話ができるよう母国の姉も同居させ、通訳を兼ねた相談役もつけるVIP待遇。あえて質疑応答に時間がかかる野球に詳しくない通訳を選び、取材攻勢から郭を守る念の入れようだった。85年開幕前の週ベでも「郭泰源はパ・リーグ人気の起爆剤になり得るか」記事が掲載され、オープン戦でさっそく153キロを計測して勝利投手になった様子や、球団トレーナーの「一本一本の筋肉が細くて、まるでマッサージするとゴムのような弾力があるんですね。スリムなんだけど全身がハガネというかバネなんです」というコメントを紹介。野球ファンの郭最強幻想が高まると、85年4月8日の近鉄戦(西武球場)での公式戦デビューは初勝利を完投で飾り、そこから3試合で28回を投げて26イニング無失点の快投。4月の月間MVPも受賞し、当時国内最速の156キロの直球に加え、スライダー、シュート、スローカーブ、シンカー、フォーク、チェンジアップ風のパームボールと多彩な変化球の数々で“オリエント・エクスプレス”旋風を巻き起こす。

 6月4日の日本ハム戦(平和台)では史上54人目のノーヒットノーランを達成。前半戦だけで9勝を挙げ、防御率もリーグ1位。もちろんオールスター戦にも選出されたが、7月16日に右肩腱板部損傷で全治2週間と診断されてしまう。投手転向は高校2年時と経験が浅く、年間を通して投げる体力面にも不安があった。残りのシーズン、郭はリハビリに費やし阪神との日本シリーズでも復帰できなかったが、2年目にはまずは短いイニングからとクローザーを任され、16セーブを記録。やがて先発に戻ると、87年からは3年連続の2ケタ勝利。西武も85年からリーグ4連覇、86年から日本シリーズV3と黄金時代が幕を開ける。同郷の郭源治中日)や荘勝雄ロッテ)らと“二郭一荘”と称され、“アジアの大砲”呂明賜(巨人)には入団前に母国で会い、日本プロ野球についてアドバイスを送ったという。

 88年週べ7月4日号の「見よ、台湾パワー!」特集では、西武OB大田卓司の直撃インタビューに対し、郭泰源は「外人枠っていうの、イヤですね。ボクの気持ちの中では“ボクって外人なのかな”というの、あるよ。だって体格だって、キャリアだって、ボクは(大リーグから来た)アメリカ人と全然違うよ。ボクらは、プロ野球の経験がないでしょう」と心情を吐露。当時は外国人枠が一軍2名までと競争が厳しく、アマチュアから直接来日する実質日本の大卒ルーキーと年齢的には変わらない台湾人選手も、元大リーガーと少ない枠を争う必要があった。

 郭はそういう厳しい立場で、1年目からエース級の働きをしてみせたのだ。一方で安定した成績を残しながらも慢性的な右ヒジ痛を抱え、森祇晶監督を「タイゲンさえフルシーズン働いてくれたら……」なんて嘆かせたが、故障なく過ごした91年には優勝を争うライバル近鉄相手に7勝と猛牛キラーぶりを発揮し、9連続完投勝利を含む15勝6敗1セーブ、防御率2.59の好成績で自身初のMVPに輝いた。オフには29歳にして年俸1億円を突破。渡辺久信工藤公康らと西武黄金時代をローテのど真ん中で支え、日本で経験を積んだ“オリエント・エクスプレス”はやがて“コントロール・アーティスト”と称されるようになる。登板時には「カントク、今日は寝てていいよ」なんつって軽口をたたく余裕ができた背番号18は、92年も14勝4敗、防御率2.41でチームの3年連続日本一に貢献する。無類の酒好きで知られ、趣味は釣りにパチンコ通いの庶民派エース。

「ようパチンコをやりましたよ」


日本通算13年間で117勝68敗18セーブ、防御率3.16をマークした


 元同僚の大久保博元は自身のYouTube「デーブ大久保チャンネル」にて、当時近所に住んでいた秋山幸二と、郭の部屋へ遊びに行くと真昼間からブランデーをストレートで飲んでいた思い出話を楽しそうに披露していた。部屋にいないときは、たいてい近所のパチンコ屋か行きつけの寿司屋で、寿司を食わず卵焼きやウインナー炒めを作ってもらい食事中。その風貌どおり、郭は穏やかな性格で怒ったのを一度も見たことがないという。

 93年春には、あの長州力も悩ませた右手の甲にできた良性腫瘍ガングリオンの手術。その年は8勝に終わったが、翌94年は13勝、森監督が去った95年は防御率2.54で伊良部秀輝(ロッテ)と僅差のタイトル争いを繰り広げた。30代中盤からの右手首痛もあり97年限りで西武を退団。プロ13年目の日本ラストゲームは97年10月5日、219度目の先発マウンドに上がり、打席にはダイエーの顔となった親友の秋山がいた。3球目で遊飛に打ち取ると、郭は三塁ベンチに戻る背番号1と握手を交わす。2リーグ制の外国人投手最多の通算117勝、あのころの常勝西武は確かに“オリエント・エクスプレス”とともにあった。

 台湾プロ野球で現役を続けるため帰国直前の週べ独占インタビューでは、母国で女優をしていた妻が日本に来て普通の主婦となり自分を支えてくれたことや、高校2年のときに一番最初に見に来てくれたスカウトが西武の人だったと感謝を口にする。35歳になり異国での挑戦を終えた郭泰源は、10数年前の自身の争奪戦や来日1年目の喧噪を、こんな風に振り返っている。

「10年分くらいの人生経験をしたかな(笑)。違う国に来て戸惑いながら、プレッシャーやストレスをずっと感じていた1年でした。おかげでパチンコを覚えちゃった(笑)。ストレス解消のために、ようパチンコをやりましたよ」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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