グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。ライオンズを支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していく連載、今回は元選手だった二軍マネジャーを紹介しよう。 32歳でユニフォームを脱ぐ
浦和実業学園高、平成国際大を経てJR東日本東北から2008年に大学・社会人ドラフト1巡目で西武に入団した平野将光。キレのあるストレートとフォークが武器の右腕がプロ野球人生で最も印象に残っているのはプロ初勝利だという。08年7月23日の
楽天戦(西武ドーム)だ。1年目にプロ初先発のチャンスをもらい、懸命に腕を振って5回2/3を2失点にまとめた。
「地元の埼玉で初勝利を挙げられたので、すごく印象深かったですね」
しかし、1年目はこの1勝のみに終わり、2年目も5試合の登板で1敗1セーブ。3年目には「2番目に印象深いことですね」という完封勝利を7月15日の
日本ハム戦(西武ドーム)でマークするなど11試合に先発し4勝を挙げた。さらなる飛躍を誓った翌11年、開幕先発ローテションに入ったが、4月は3試合に先発して0勝1敗。トータルで8試合に先発して1完投も記録したが、0勝5敗と勝利から見放された。

現役時代の平野
捲土重来を期す12年、春季キャンプで行った週刊ベースボールのインタビューでは「先発でも、中継ぎでも、自分の有利なカウントに持っていけずにピッチングが苦しくなってしまった。今年はそこを意識して投げていかなければいけないでしょうね。相手もいることなので難しいと思いますけど、たとえ不利なカウントになったとしても、マウンドでうまく対応できるようにしていきたいです」と前年の反省を踏まえ、前を見据えた。
だが、12年は3試合の登板に終わり、オフに背番号も「19」から「23」へ変更。13年には左ワキ腹痛の影響もあり、初めて一軍登板なし。14年は中継ぎで7試合に登板も15年はふたたび二軍暮らし。「もう、ある程度は覚悟していましたね」。オフ、球団から戦力外通告を受け、32歳でユニフォームを脱ぐことになった。
第二の人生は副寮長兼育成担当からスタート
8年間の現役生活。通算60試合に登板し、6勝13敗2ホールド1セーブ、防御率5.13。勝ち運もなかった。先発で勝利を得られなかった11年、どこかで流れを引き寄せて勝ち投手になっていたら、野球人生が変わったものになったかもしれない。とはいえ、本人は「後悔することなく、やり切った感はあります」と言い切る。生真面目な性格の平野。何ごとにも一生懸命に取り組んでいた。その姿を周囲も評価していたのだろう。チームスタッフとして第二の人生のオファーが球団からあった。
現役時代はセカンドキャリアのイメージを描いていなかったが、「次のステップに進もう」と、少し考えたのちに球団に残る決心をした平野。役職は副寮長兼育成担当だ。
「寮長に仕事を教わりつつ、自分が寮生だった時代の寮長をイメージしましたね。また、寮生に対しては、ある程度目を配りつつ、ほど良い距離感を保つようにしていました。」
副寮長の仕事にやりがいも見いだしていたが、翌17年からは二軍用具兼マネジャー補佐に役職変更となった。
「用具担当は朝早い時間から、夜遅くまで道具の管理や練習の手伝いをやるんです。例えばファームのデーゲームなら朝7時くらいに球場に来て、帰るのが夜8時くらいになります」
本人は「面倒くさがりなので」と言うが、用具担当の仕事でも生来の生真面目さが発揮された。
「準備にしてもいっぺんにやりたいんですよね。2度手間が嫌いなので。例えば道具を運ぶときも2、3往復するのではなく、絶対に1往復で収める。それは前もって準備しないとできないことなので。常に先を考えて行動はしていました」
「効率的に物事を進めたい」

二軍マネジャーとしてさまざまな仕事に精を出す
同時にマネジャー補佐として二軍マネジャーの手伝いもしていたが、今年から用具担当を外れ、二軍マネジャーとして独り立ちすることになった。
「仕事内容はいろいろです。宿泊先の手配、移動手段の手配、スケジュール管理、試合のスコアをつけることなど、何でもやります。特に宿泊や移動の新幹線、飛行機の手配はミスしたらチームが回らなくなってしまうので、そこは一番重要だなと思っています」
スコアをつけることによって、二軍の試合を見る機会も増えた。
「やっぱり、若い選手が一軍に上がってくれるとうれしいです。ファームで頑張っている選手の結果は気になりますね」
初めて一軍に上がる選手に“レクチャー”するのも大切な仕事だ。今季で言えば10月11日にドラフト3位ルーキーの
松岡洸希が初めて一軍に昇格。そのとき一軍はビジターの楽天戦だった。
「仙台まで一人で行かないといけませんでしたからね。分かりやすくイチから全部教えてあげました。ここで何をして、領収書ももらって、と。ちゃんとたどり着けるか心配でしたね(笑)」
選手からチームスタッフとなり5年。立場が変わって気が付くことはたくさんあったという。
「一番に思うのはチームスタッフの方々がこんなに頑張ってくれていたんだなということです。選手のときもそう思わないこともないですけど、そんなに深くまで思っていなかったな、と。やっぱり、準備とか大変ですしね」
自身はチームスタッフとなっても“仕事”に対する取り組み方は変わらない。選手時代と同じく後悔なくやり切るだけだ。
「日々一生懸命にやるしかないです。それと、自分なりにアレンジじゃないですけど、もっと要領よく仕事ができないかな、と。いろいろ探りながらやっているので。もっと効率的に物事を進められれば、仕事の範囲は広がるかなと常に考えています」
「今まで経験した仕事のなかではマネジャーが一番大変」と言いながら、「でも一番楽しい」と笑う平野。その表情からはチームスタッフとしての充実感がうかがえる。
(文中敬称略)
文=小林光男 写真=球団提供、BBM