歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 運命の87年

横浜大洋のエースとして活躍した遠藤
大洋(現在の
DeNA)が横浜へ移転してきたのは1978年のこと。このとき、チーム名を横浜大洋ホエールズと改め、地域密着の球団を目指した。
広島は別格としても、地域密着を打ち出したのは当時では画期的なこと。現在のプロ野球を見れば、先進的なことでもあった。ただ、その“横浜大洋”は、92年を最後に横浜ベイスターズとなり、わずか15年で幕を下ろすことになる。
一方、大洋のエースといえば、初優勝、日本一の立役者となった
秋山登や、大洋で初めて通算200勝に到達した
平松政次を挙げるファンも多いだろうが、“横浜大洋のエース”となると、やはり
遠藤一彦になるのではないか。通算100勝100セーブを超えた
斉藤明夫(明雄)も遠藤との二枚看板として活躍していたが、遠藤は78年に入団し、92年に引退。つまり、自身のキャリアと“横浜大洋”の歴史がピッタリ重なっているのだ。決して強いとは言えないチームだったが、マリンブルーの洗練されたユニフォームは印象的で、スマートで知的な風貌な遠藤が、それを“着こなしていた”イメージもある。
福島県の出身。同じく福島県に生まれた同学年の投手には
江川卓がいた。江川は静岡県を経て栃木県で育ち、作新学院高で“怪物”の異名を取ったが、そんな江川を「いつか追い抜いてやる」と思いながら見ていたのが遠藤だった。ドラフト3位で大洋へ。1年目は二軍で経験を積んで、翌79年に新人王の権利を残した。一方で、江川は“浪人”。“江川事件”と言われる騒動の末、
巨人へ入団した79年に、遠藤は12勝を挙げた。ただ、新人王は
中日の
藤沢公也に譲り、話題の中心にいたのは9勝に終わった江川。そんな江川の存在が遠藤の原動力となり、チームのエースへと成長させていった。
82年に巨人の優勝が懸かった試合で江川に投げ勝ったことで自信を深めて、翌83年に18勝、その翌84年には17勝を挙げて、2年連続で最多勝に。2年連続でリーグ最多奪三振もマークした。遠藤の大洋は、江川の巨人ほどの強力打線ではない。「自分が投げる試合は必ず勝つ」という使命感を帯びて、すさまじい落差のフォークを駆使して獲得したタイトル。82年から87年まで6年連続2ケタ勝利、83年から87年までは5年連続で開幕投手も務めている。
その87年は、江川が広島の
小早川毅彦に自信のストレートを本塁打にされて引退を決意したシーズンでもあったが、同年は遠藤にとっても運命のシーズンとなった。巨人が優勝に突き進んでいたシーズン終盤、その巨人戦(後楽園)。5回表、走塁中の遠藤を激痛が襲う。右足アキレス腱の断裂だった。それでも、すぐに復帰への計画を練り始める。懸命のリハビリが始まった。
メジャーで通用する投手

92年、横浜大洋としての最後の試合が引退試合になったが、遠藤は号泣
目標だった6年連続の開幕投手こそならなかったものの、本拠地開幕戦で先発して一軍に復帰。だが、従来の投球を取り戻すことはできず、そこからシーズン5勝、2勝と、白星から遠ざかっていった。同様に江川をライバル視していた巨人の
西本聖が、ライバルの存在を失ったことで不完全燃焼に陥ったのとは、やや様相が異なる。ただ奇しくも、遠藤が鮮やかによみがえったのは、西本が中日へ移籍して初の最多勝に輝いた90年だった。
就任したばかりの
須藤豊監督は、遠藤をクローザーに配置転換。これが奏功する。先発のイメージが強い遠藤だが、3年目の80年にもクローザーとして16セーブをマークしていた。10年ぶりの役割ではあったが、遠藤は躍動する。すべて救援のマウンドで45試合に登板すると、最終的に21セーブ。大洋も3位と、7年ぶりのAクラスに躍進して、遠藤にはカムバック賞が贈られた。“横浜大洋”ラストイヤーの92年いっぱいで引退したのは、かつての指揮官でもある
関根潤三から「“横浜大洋”でやめるのも絵になる」と言われたこともあったという。横浜スタジアムでの引退試合では、セレモニーで満員の観客を前に号泣。この試合は“横浜大洋ホエールズ”として最後の試合でもあった。
通算460試合登板、134勝128敗58セーブ、1654奪三振、防御率3.49。通算勝利では江川よりも1勝だけ少なかったが、セーブも合わせれば、はるかに上回る数字となる。ちなみに、メジャー歴戦のスイッチヒッターで、80年から82年まで巨人でプレーしたホワイトや、87年に“旋風”を巻き起こした
ヤクルトのホーナーらが「メジャーで通用する投手」を問われて挙げたのは、遠藤の名前だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM