神宮とともに歩んだ56年

神宮球場の名物である水明亭が12月6日に閉店した。天ぷらそばが人気メニューだった
帰る場所がなくなったような喪失感がある。
神宮球場にリーグ戦の当事者(マネジャー)であった大学4年間、そして、仕事として足を運ぶようになって23年。単純計算ではあるが、1600食以上は平らげたと思う。
決まってオーダーしたのは名物・天ぷらそば(うどん)だった。かき揚げはいつも揚げたてであり、シャキシャキとした歯ごたえがあった。新鮮なネギとの相性も抜群であった。
神宮正面のコンコースで営業していた水明亭が12月6日、
ヤクルトのファン感謝デーを最後に閉店した。同球場に入ったのが前回の東京五輪が開催された64年であるから56年もの間、スタジアムとともに歩んだことになる。
思い出は尽きない。
かつお節と昆布から取ったダシには、こだわりがあった。胃に優しく、いつも、飲み干していた。万人受けする味付だった。店主・本村律枝さんがこう語っていたのを思い出す。
「ある関西出身のプロ野球選手が『東京の汁は黒いからイヤだ!』と言われるんです。全国からお客さんがお見えになります。ご要望に応えるため、白めの九州と関東をミックスさせた多少、薄めにしたんです」
本村さんの兄は、早大野球部OBの故・本村政治さん。本村さんが初めて神宮球場に足を運んだのは、兄が4年生遊撃手だった1955年秋の早慶戦だという。
「当時の観衆は推定7万人。人、人で……。長椅子でしたから、通路にも観衆を詰め込んでいました。試合後はあまりにも危険なので、早稲田の野球部が手配したバスで送ってもらいました。まさか、そこで働くことになるとは……」
本村さんの実家(福岡)は料理屋。当時、信濃町にあった野球会館の地下へ板前派遣の依頼があり、料亭「しなの」を開業したのが水明亭の前身だ。ところが、64年の東京五輪に合わせて建設された首都高速の関係で、立ち退くことに。神宮スケート場の横へ移転(18年閉店)し、のちに神宮へも出店したのだ。
いつも感じた店主の温かみ

12月6日の営業最終日も療養中の店主・本村律枝さんに代わり、親戚の山口照弘さんが店を切り盛りしていた
かつては現在の正面だけでなく一塁、三塁、外野でも営業し、にぎやかな時代もあった。
なぜ、ここまで水明亭に愛着を持っているのか。本村さんの人柄に尽きる。これは、いまだからこそ明かせる裏話だ。
下級生マネジャー時代、神宮に到着すると、ベンチ入りメンバーの食券を購入するのが仕事のスタートだった。最近は店頭レジで現金を手渡しするが、かつては自販機で一枚一枚買った(その後、まとめ買いの機能もついた)。第1試合の場合、選手たちはかけそば(うどん)とおにぎりを食べて、打撃練習に入る。
営業開始は開門時間が原則だが、すでに、一塁側から始まる打撃練習は開門30分前にはスタート。第1試合の際には、前倒ししてオープンしてくれたこともあった。また、最近の話では通常、第2試合の5回終了をメドに営業は終わるが、事前に打ち合わせをしておけば、試合直後に用意してくれたことも。あくまでも、野球部限定サービス(たまに、トッピングのオマケも……)。本村さんはいつも学生に寄り添い、温かみがあった。
大学4年を経て、就職して以降も「神宮のお母さん」だった。こんなエピソードもある。法大からヤクルトに入団した
稲葉篤紀氏(現侍ジャパントップチーム監督)は、ゲーム前にたびたび同店を訪れたという。本村さんは明かす。「試合前に食べると打てる、というラッキーアイテムだったようなんです。時には悩みごとを聞いたり、話し込むこともありました」。神宮に関係する多くの人が、どこかでお世話になったに違いない。
しかし、今秋は本村さんの姿を見ることができなかった。体調を崩して療養中だという。今回の閉店を知った各校の野球部OBは、すぐさま反応。そして、別れを惜しんでいた。この場を借りて「感謝」を伝えたいと思う。
ありがとうございました。そして、長い間、お疲れ様でした。来春のシーズン開幕後、当たり前のようにあった水明亭はなく、相当な「ロス」を実感するはずである。
文=岡本朋祐 写真=川口洋邦