自身は永久欠番を固辞

西鉄で背番号「24」を着け、61年には42勝を挙げるなど鉄腕と称された稲尾
埼玉は所沢に本拠地を置く
西武。ニックネームがライオンズとなったのは1951年で、当時のチーム名は西鉄だった。本拠地は九州の福岡で、プロ野球が2リーグ制となった50年に西鉄クリッパースとして参加して、オフに同じ福岡に拠点を置く西日本パイレーツを吸収合併したものだ。ただ、1リーグ時代に1年だけ存在した西鉄というチームも無関係とは言い切れず、歴史は複雑だ。系譜が明確になったのは、やはりライオンズ元年の51年。54年に初のリーグ優勝、56年からは3年連続で日本一に輝くなど黄金時代を謳歌したが、63年のリーグ優勝を最後に低迷。太平洋、クラウンと名称を変え、79年に西武となって本拠地も移転した。初めて永久欠番が誕生したのは2012年5月1日で、西鉄を黄金時代に導いた“鉄腕”
稲尾和久の「24」。稲尾の生誕75周年を機に永久欠番となったものだ。
「24」の初代を誰とするかも難しいが、クリッパースでは捕手の
伴勇資が唯一。ライオンズとなって伴は「11」となり、1リーグ時代は投手も経験している
小田野柏で2年間、
八浪知行が3年間と、外野手が「24」をリレーした。56年に入団して「24」を背負った稲尾がライオンズでは3代目、投手の第1号で、1年目から3年連続で最優秀防御率に輝くなどの活躍。58年の日本シリーズでは西鉄を3連敗からの4連勝に導いて、「神様、仏様、稲尾様」と言われた。
61年にはプロ野球記録に並ぶ42勝。シーズン78登板は21世紀に更新されたが、稲尾を超えた投手たちも投球回404イニングは遠く及ばない。だが、この力投は64年からの故障との闘いを呼び、69年オフに現役を引退した。すぐに監督となった稲尾は「24」のまま指揮を執ったが、72年オフ、西鉄の終焉とともに「24」を返上して「81」に。このときも永久欠番の打診があったが、稲尾が固辞。前途有望な選手に与える背番号として欠番の状態に入った。
最初の後継者は、やはり投手だった。ドラフト1位で入団した76年に継承した右腕の
古賀正明は太平洋、クラウン時代で唯一の「24」。九州ラストイヤーの78年オフに
ロッテへ移籍すると、
巨人、大洋(現在の
DeNA)と渡り歩いて、プロ野球2人目の全12球団から勝ち星を挙げた投手となっている。西武の初代は助っ人で内野手の
ミューサーだが、シーズン途中で退団。内野手の
小川史が「1」から変更して81年まで着けたが、結果を残せず、南海(現在の
ソフトバンク)へ移籍してブレークしている。そして翌82年。西武で初めて「24」を外野手が背負ったことで、チームの歴史が大きく動く。
主砲の出世ナンバー

「24」を背負った秋山は85年に40本塁打と大ブレーク
82年に「71」から変更して、「24」を背負ったのが
秋山幸二。まだ二軍で英才教育を施されていた時期だが、「24」で85年に40本塁打を放って大ブレーク、翌86年に新人の
清原和博が「3」を着けると、続く87年に「1」となって“AK砲”を形成、黄金時代を象徴する存在となる。「24」は秋山の出世ナンバーと言える背番号だ。その後は外野手がリレー。87年は助っ人のブコビッチが背負ったが、オフに退団、翌88年に後継者となったのが
中日から移籍してきた
平野謙だった。秋山とはタイプが異なる職人肌の平野は
森祇晶監督の緻密な野球に不可欠な存在となり、黄金時代の底力となっていく。平野の移籍で近鉄から移籍してきた
小野和義が背負い、西武では初めて投手の背番号となるも、97年シーズンが開幕してからトレードにより内野手の
金村義明が継承。金村は西武の「24」でキャリアを終えた。
2000年代からは投手がリレー。ドラフト2位で入団した右腕の眞山龍が着けるも一軍登板なく引退、06年に左腕の
松永浩典が継承したが伸び悩んで、11年から「38」に。その11年シーズン途中に入団した助っ人で外野手の
マルハーンが「24」で初打席本塁打の鮮烈デビューを飾るも、それが最後の見せ場となり、オフに退団。このマルハーンが「24」最後の選手となる。「24」が永久欠番となった12年には松永が自己最多の56試合に投げまくって12ホールドをマークしたが、翌13年から松永も故障に苦しめられ、12年のフル回転がラストシーンとなった。
【西武】主な背番号24の選手
稲尾和久(1956~72)
秋山幸二(1982~86)
平野謙(1988~93)
小野和義(1994~97)
松永浩典(2006~10)
文=犬企画マンホール 写真=BBM