初年度から内野手の系譜

79年から86年までロッテで「6」を背負った落合
ロッテは2リーグ制となった1950年に参加した毎日が起源で、ニックネームはオリオンズ。1年目からパ・リーグを制し、その勢いのまま日本一に。つまり、2リーグ制で最初の日本一チームがロッテの源流ということになる。その後は優勝から遠ざかり、2度目のリーグ優勝は10年後、大映と合併して3年目の60年。このときは日本一には届かず、ふたたび頂点は遠のき、チームも64年から東京、69年にはロッテと変更を繰り返す。3度目のリーグ優勝も、やはり10年後の70年だ。このときの本拠地は、かつて東京の下町で“光の球場”と呼ばれた東京スタジアムだった。
その閉鎖で73年は県営宮城球場を準フランチャイズとする“流浪の球団”となったロッテだが、それでも翌74年に前後期制2年目のパ・リーグを制して、日本シリーズでも
巨人のV10を阻んだ
中日を下して2度目の日本一に輝いた。本拠地は78年から川崎球場に落ち着いたものの、失速。92年に千葉マリンスタジアムへ移転、ニックネームも現在のマリーンズに変更する。やがて千葉に定着したロッテは2005年に5度目のリーグ優勝、3度目の日本一に。10年にはシーズン3位から日本一にまで駆け上がる“史上最大の下剋上”でプロ野球を沸かせた。

メジャーから日本球界に復帰したロッテで「6」を背負い続ける井口
一方、ロッテの背番号で「6」については
落合博満の背番号を紹介した際にも詳しく触れているが、現在の
井口資仁監督がメジャーからロッテでプロ野球へ復帰した09年、さらに監督となった18年からも背負い続けているナンバー。現役の監督では唯一となる1ケタの背番号でもある。もともと「6」は内野手が多い背番号であり、ロッテも毎日だった1年目から内野手の系譜で、井口監督も内野手だった。1997年にダイエー(現在の
ソフトバンク)でキャリアをスタートさせたときは「7」だったが、パワーとスピードを兼ね備えた遊撃手、二塁手として黄金時代に貢献。04年オフに海を渡ると、4年間メジャーでプレーして、復帰したロッテでも攻守の中心として活躍を続けた。

94年から05年まで「6」は“ミスター・マリーンズ”初芝の背に
17年オフに現役を引退して監督に。現時点ではロッテで一貫して背負っている「6」だが、メジャーから復帰した際には欠番だった。その前任者は日本一イヤーの05年までプレーしていた
初芝清。千葉へ移転したロッテで、あぶなっかしい三塁守備でも印象を残す一方で、明るいキャラクターと勝負強い打撃でファンに愛されて“幕張のファンタジスタ”、“ミスター・マリーンズ”と呼ばれた強打者だ。まだ川崎に本拠地があった89年に入団。全盛期はロッテが千葉へ移ってからで、「0」から「6」に変更して2年目の95年には80打点で打点王にも輝いている。
その前が落合との大型トレードで中日から移籍してきた1人の
上川誠二だが、結果的に中日で着けていたものと同じ「6」となったもの。ロッテの「6」に、内野手のイメージに加えて強打者のインパクトを残したのは、やはり落合だろう。
初代は日本一イヤーのヒットメーカー
ロッテの「6」で3度の三冠王に輝いた落合も内野手だが、その前の「6」は巨人から移籍してきて2度のリーグ優勝に貢献した遊撃手の
千田啓介で、どちらかといえば名ワキ役タイプ。千田の前に内野のバックアップだった3年目の園田善則が1年だけ着けて、その前の
児玉禎彦も5年間「6」だった内野のユーティリティー、さらにさかのぼって63年の
岩本進は代打がメーンで、62年の
寺本勇は系譜では貴重な外野手だが出場は代打、代走のみ。
だが、それ以前の系譜には球界の功労者も並ぶ。60年から61年までが巨人の
王貞治に“一本足打法”を指導したことでも知られる
荒川博の現役時代で、系譜で最初の外野手。その前がスポーツキャスターのパイオニアとして著名な内野手の
佐々木信也で、ともに選手として最後の2年間だった。佐々木の前も内野手の
岡田守雄で、遊撃のバックアップ。54年は岡田に加え、投手から内野手に転向した
萩原昭が着けたという資料もある。その前が初代だ。社会人の大洋漁業から大洋(現在の
DeNA)ではなく毎日の結成に参加した
河内卓司で、1年目から147安打を放ち、日本シリーズでも全試合に出場した日本一イヤーの一番打者だった。
【ロッテ】主な背番号6の選手
河内卓司(1950~53)
千田啓介(1970~78)
落合博満(1979~86)
初芝清(1994~2005)
井口資仁(2009~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM