『成りあがり』の精神を胸に

98年、背番号を「18」に変更して12勝をマーク。優勝に貢献した
今年から
DeNAの監督に就任した
三浦大輔はファンから絶大な人気を誇る。横浜一筋25年間の野球人生で通算172勝をマーク。奈良出身でFA宣言した際は条件で上回る
阪神が獲得に動いたが、横浜に残留を決断して大きな反響を呼んだ。球団名が横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズと変わった中、3球団すべてに在籍したことがある唯一の選手だった。
奈良県橿原市で生まれ育った三浦は高田商高に進学。県下では好投手として評判だったが、3年春夏の県大会は決勝でエース・
谷口功一を擁する天理高に阻まれて甲子園出場は叶わなかった。物腰は柔らかいが、反骨精神は誰よりも強い。大洋にドラフト6位で指名された際はまったくの無名だった。中学・高校時代に夢中になった漫画『ビー・バップ・ハイスクール』や、大好きだった矢沢永吉やエルビス・プレスリーからの影響で奇抜なリーゼントヘアーに。当時の首脳陣から罰金を払うか髪を切るか選択を迫られたが、三浦は罰金を選択。矢沢の自伝『成りあがり』の精神を胸に、プロの世界で下克上を誓う。
入団1年目。92年10月7日の公式戦最終戦・
巨人戦(横浜)で一軍デビューを飾り、2回無失点に抑える。この日は大洋の最後の公式戦でエースとして活躍した
遠藤一彦の引退登板という特別な日だった。4年目の95年に先発ローテーションに定着して8勝をマークすると、97年は10勝3敗と初の2ケタ勝利で最高勝率(.769)をマークする。背番号が「46」からエースナンバー「18」に変わった98年は自己最多の12勝を挙げ、38年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。リーゼントヘアーは三浦の代名詞となり、「ハマの番長」の異名で人気も全国区になる。
直球は常時140キロ前後と決して速くない。武器は抜群の制球力だった。ボール半個分の出し入れで打者を翻弄する。カットボール、スライダー、フォーク、スローカーブ、シュートと多彩な変化球の精度も高い。現役時代に対戦した元
中日の
立浪和義は「カット系の小さいスライダーを覚えてから厄介な投手になった印象があります」と評している。
技巧派だったが打たせて取る投球術だけでなく、三振を奪う能力にも長けていた。05年は12勝9敗、防御率2.52で最優秀防御率とともに最多奪三振(177)のタイトルを獲得。投球回数は05年が214回2/3、06年が216回2/3といずれもリーグトップと抜群のスタミナを誇り、完投能力も高かった。
ファンから愛された「横浜の象徴」

現在はDeNAの監督となり、チームを悲願の優勝へ導くべく奮闘している
野球人生の大きな転機は08年オフ。FA権を行使すると、阪神が獲得に名乗りを上げた。阪神戦は現役通算46勝32敗と相性が良かったこともあり、先発の柱としてラブ
コールを送られた。幼少期に大阪市玉造で過ごし、花屋を経営していた父・克之さんが
岡田彰布の後援会「岡田会」のメンバーだったことから、三浦は岡田と顔見知りだった。子供のころからあこがれの球団だった阪神からのオファーに心は揺れたが、悩み抜いた挙句に「強いところを倒して優勝したい。横浜が好きだから」と残留を決断する。
チームは下位に低迷したが、12年にチームトップの9勝、リーグトップの6完投をマーク。13年も6月12日の
ロッテ戦(QVCマリン)で球団最年長記録の39歳3カ月で完封勝利を飾るなど9勝を挙げる。16年は一軍公式戦24年連続安打を達成。「プロ野球の公式戦で投手が安打を放った最多連続年数」として、ギネス世界記録に認定された。
だが、若手の台頭もあり、未勝利に終わった同年限りで現役引退を決断する。最終登板は9月29日の
ヤクルト戦(横浜)。全盛期の球のキレはない。6回1/3で8三振を奪うも12安打10失点。打たれても、打たれても心が折れずに挑み続けた119球の熱投は三浦の野球人生を象徴するようなマウンドだった。
現役通算535試合登板で172勝184敗、防御率3.60。輝かしいキャリアだけではない。25年間の野球人生でリーグ優勝は1度のみ。開幕投手を7度務めたが通算0勝7敗、巨人戦は13勝39敗と大きく負け越したが、大きな故障もなくエースとして腕を振り続けた右腕は「横浜の象徴」として、ファンから愛された。
三浦は引退セレモニーで、「横浜一筋で25年来られたのも、皆さんのおかげです。これからの人生も、横浜一筋で来られたことを誇りに頑張っていきます。今シーズンをもちまして現役を引退致しますけれども、これからも三浦大輔はずーっと横浜です。ヨ・ロ・シ・ク!」と決めゼリフで締めて感謝を口にした。あれから4年の月日が流れた。昨オフにDeNAの監督に就任し、現役時代に追いかけ続けたリーグ優勝の夢をかなえる。
写真=BBM