オリックスでは故障が続き……
現在は今年で23歳になる5年目の若き右腕・山本が「18」を背負う
2020年に
オリックスの「18」を背負うと、149奪三振で初タイトルとなる最多奪三振に輝いた
山本由伸。この「18」はプロ野球で一般的にエースナンバーとされる背番号だが、前身の阪急から他の背番号を着けた投手がエースとして君臨していることが多く、オリックスの「18」をエースナンバーの系譜と言い切ることは難しい。ただ、多彩な持ち味でチームに貢献した投手たちの系譜であることは確かだ。長く背負い続ける投手とともに、短い期間で鮮烈に輝いた投手も並ぶ。
オリックス元年に背番号「18」を着けた酒井(左は山沖之彦)
時代が昭和から平成となり、阪急がオリックスとなった1989年に「18」を背負い、新人王に輝いたのがドラフト1位で入団した
酒井勉。ドラフト1位で入団した新人の投手が着ける傾向は前身の阪急で84年に
野中徹博が着けてからだが、野中は阪急では芽が出ず、プロ14年目、3チーム目の
ヤクルトでの97年がキャリアハイ。酒井も開幕までは否定的な声が多かった。それでも、いざ開幕すると初登板初完投勝利の鮮烈デビュー、独特の変則フォームから多彩な変化球を繰り出して先発、救援にフル回転して9勝9セーブ。ブルーウェーブ元年の92年には初の2ケタ10勝を挙げた。だが、「肩は消耗品。使ったら休まれる」が持論だった酒井に悲運が襲う。93年に胸椎黄色じん帯骨化症の難病を患い手術。94年からは一軍登板なく、96年オフに引退した。
翌97年に後継者となったのもドラフト1位で入団したばかりの
杉本友で、1年目から3勝を挙げたものの、2000年オフに開花を前に横浜(現在の
DeNA)へ。01年は来日1年目の
具臺晟が着けたが、1年で「15」に。02年は欠番で、03年に新人ではないがドラフト1位で入団して4年目の
山口和男が継承した。山口は02年に当時のプロ野球で最速に並ぶ158キロをマークした速球派だが、「14」から変更した03年は手術の影響で一軍登板なし。それでも翌04年には球速こそ完全には戻らなかったものの、自己最多の17セーブと復活する。だが、その翌05年に危険球で退場となってからは精彩を欠いた。
山口の引退で10年に後継者となった5年目の
岸田護も「14」からの変更で、09年に初の2ケタ10勝を挙げた右腕だったが、「18」ではリリーバーに。交流戦で初優勝を飾ったオリックスで、16試合に登板して防御率1.08の安定感で大きく貢献した。翌11年はクローザーとして自己最多の33セーブ。13年からはセットアッパーに回ったが、キャリア終盤は故障に苦しめられ、19年オフに引退した。
悲運の好投手という印象もあるオリックスの「18」だが、系譜を阪急にまでさかのぼると、その姿は逆転する。
阪急だけで902試合登板、338勝
阪急で「18」と言えば“ガソリンタンク”米田だ
プロ野球が始まった1936年の1年だけ着けた初代の
志手清彦は外野手で、翌37年から40年までの
林信一郎。41年の1年だけ在籍して戦没した
桑島甫、42年から43年の
高柳常治は内野手だった。投手の背番号となったのは戦後。一時的にではあるが、46年に着けた
笠松実は戦前から在籍していた右腕で、17勝を挙げた42年には延長19回を完封したこともある鉄腕でもあった。その46年から「18」に定着して、引退する53年まで背負い続けた鉄腕の“元祖”ともいえる
野口二郎。46年には打者としても31試合連続安打、翌47年には24勝と怪物ぶりは健在で、その翌48年は14勝ながらも、シーズン無四球完投13は現在もプロ野球の頂点に輝いている。
野口の引退で継承した
国頭光仁も投手だったが2年で引退。そして56年、「背番号18をもらえるなら」と阪急でキャリアをスタートさせたのが“ガソリンタンク”
米田哲也だ。1年目から
梶本隆夫との左右両輪でチームを支え、阪急だけでも通算902試合の登板で338勝、キャリア通算では949試合で350勝の鉄腕ぶりだった。米田の移籍で76年は欠番となり、鉄腕の流れは途切れたが、翌77年に
中日の「18」だった
稲葉光雄が移籍してきて、いきなり17勝。米田と同様に
阪神へ移籍するまで7年間、「18」を背負い続けた。
2021年の開幕投手が内定した山本。目指すは不動のエースだけでなく、故障とは無縁のエースなのかもしれない。
【オリックス】主な背番号18の選手
野口二郎(1946〜53)
米田哲也(1956〜75)
稲葉光雄(1977〜83)
酒井勉(1989〜96)
山口和男(2003〜09)
岸田護(2010〜19)
山本由伸(2020〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM