最大の武器は“七色のカーブ”
シュートやカーブも持っていたが、基本的にはストレートとカーブを中心に攻めた
投手王国・
広島が生んだ中継ぎのスペシャリストだ。1997年に達成した連続試合救援登板424は、当時の日本記録。結局、438まで数字を伸ばしたが、入団から引退まで、登板試合はすべてリリーフだった
清川栄治。左の変則投法で「技巧派」と呼ばれることが多いが、奪三振数が投球イニングを上回る「自称・本格派」だった。
大商大時代までは先発完投型だった清川。84年にドラフト外で広島に入団したが、当時の広島は12球団随一の“投手王国”。層の厚い先発投手陣に割って入ることはできなかった。それでも「何か違う形で首脳陣を振り向かせよう」とサイドスローに転向。中継ぎとして、その一角に食い込んだ。
最大の武器は“七色のカーブ”。指先の力の入れ具合と手首の角度、腕の使い方で曲げ幅を変え、左打者の体の近くから「有効に逃げる球」(清川)として決め球に用いた。
87年には打者29人連続で出塁を許さなかったこともある。完全試合の27人を上回る数字だ。「途中で口にすると記録が途切れる」ジンクスを信じ、記録継続中は記者にも内緒にしていた。
翌88年4月20日の
巨人(東京ドーム)では3番手で2回を無失点に抑え、106試合目にしてプロ初勝利。さぞかし感慨深いのかと思いきや、本人の感想はこうだ。
「とうとう勝ってしまった」
0勝0敗がどこまで続くか、珍記録を狙っていたというのが面白い。
現在と異なり、「毎日40〜50球。軽くでも投げない日はなかった」という当時の中継ぎ。1シーズンを乗り切るため、体力温存を第一に心掛けた。代表的なのが毎日10時間の睡眠。「一軍にいると、何かとお誘いの声がかかります。失礼を承知で、遅くなったら途中でも先に帰っていました」。毎年、フル回転を続けた清川だが、そのプロフェッショナルな姿勢が活躍を支えた。
91年シーズン途中にトレードで近鉄に移籍。新天地でも貴重な左のリリーフとして投手陣を支えた。98年には古巣・広島に復帰し、同年限りで現役を引退。現在は
西武でファーム投手総合コーチを務める。
写真=BBM