90年代の投手王国を支えて

リードにおいては、投手に気持ちよく投げさせることを心掛けた村田
“チュウ”のあだ名で呼ばれた。練習の虫で、練習後のユニフォームがいつも泥だらけになるからだ。度重なるケガに悩まされながらも、そのリードと同じように、我慢と粘りで
巨人の正捕手の座をつかんだ努力の人だ。
滝川高からドラフト5位で1982年に巨人入団。3年目に初の一軍昇格を果たすもシーズン中、右肩に強い痛みを感じた。何度病院に足を運んでも原因が分からなかったが、86年秋の精密検査で肩の中の小さな骨が折れていることが分かった。治っても野球は無理だと診断され、ヤケになる。それを見た
須藤豊二軍監督に勧められ、アメリカでフランク・ジョーブ博士の手術を受けた。
88年に一軍復帰すると、90年には一軍に定着。打率.273、13本塁打で初のベストナイン。91年には111試合に出場。これでスタメンマスクを完全に確保したかと思われたが、92、93年は出場機会が激減。ケガをしたわけでもなく、なぜ出られないのかとくさりかけたこともあった。しかし、チームの勝利が第一と気持ちを切り替え、村田を正捕手の座から追いやった
大久保博元にも、求められれば、アドバイスした。
「出られなくて悔しい思いはもちろんある。でも、人の失敗を祈るとか、ちっちゃなことしたないやん。ずっと男でいたいから」
94年、ふたたびスタメンマスクを取り返す。5月には同期の
槙原寛己とのバッテリーで完全試合。「10.8」では三本柱(槙原、
斎藤雅樹、
桑田真澄)を好リード。さらに自身も本塁打を放ち、勝利、そして優勝に貢献し、「現役生活で一番しびれた試合」に挙げている。
いずれも150勝以上を挙げた三本柱。「彼らはすごいのひと言。いい経験をさせてもらった」と村田は話すが、3人の勝利に一番多く貢献してきたのも村田だ。我慢して粘り強く、投手に気持ちよく投げさせる好リードで信頼されてきた村田がいなければ、90年代のG投手王国は生まれなかったとも言える。
阿部慎之助ら若手の台頭も目立ち始めた01年限りで現役引退。その後、長年、指導者として巨人の勝利に貢献した。
写真=BBM