最後にそろった(?)捕手の「2」

“北海の荒熊”の異名を取った鈴木も近鉄で背番号「2」
あくまでも夢の話だ。時空さえ超えれば、高校野球と同じ背番号の選手をダイヤモンドに並べることができる近鉄。投手の「1」は
鈴木啓示、一塁手の「3」は
羽田耕一ら、二塁手の「4」は
大石大二郎ら、三塁手の「5」は
中村紀洋ら、そして遊撃手の「8」は
石渡茂ら。プロ野球の他チームにも同じルールを適用して甲子園のようなトーナメントを展開するとしたら、鈴木啓示には最後まで完投し続けてもらうしかないが、内野陣には控え選手もいる近鉄は優勝候補の筆頭に挙がるだろう。
なにしろ投手力の差は歴然。通算317勝の鈴木と互角に投げ合えそうな「1」の投手となると、そうはいない。もし
楽天を近鉄の系譜に入れたらリリーフも盤石となる。ただ、近鉄には鈴木の投球を受ける「2」の捕手が、なかなか登場しなかった。20世紀は不在。21世紀に入った2001年、「57」だった8年目の
的山哲也が「2」に変更したのが最初。これで近鉄は優勝に王手をかけたといってもいい。あくまでも、夢の話だ。

2001年から背番号「2」を着けた的山
ただ、鈴木と的山が現実でバッテリーを組むことはなかったが、現実でも的山は優勝に貢献している。その01年、近鉄は最後のリーグ優勝。近鉄の伝統ともいえる司令塔の併用もあり、規定打席には到達していないが、的山は101試合に出場している。意外性……というより“ビックリ箱”と表現される打撃には安定感に欠けたが、堅守と強肩、巧みなリードで投手陣の信頼を集めたメガネの捕手だった。
一転、20世紀の「2」は好打者の系譜だった。的山の打撃を“ビックリ箱”と表現したのも秀逸だったが、抜群のネーミングセンスによる異名を冠した好打者が並ぶ。的山の前任、20世紀の最後が
鈴木貴久だ。北海道の出身で、攻守走にわたって全力プレー。1985年に入団した鈴木は90年に「44」から変更、11年間「2」を背負い続けた。88年の優勝が懸かった伝説的な最終戦ダブルヘッダー“10.19”では第1試合で転がるように決勝の本塁を踏み、97年には大阪ドーム第1号となる本塁打を放つなど、ドラマが多かった鈴木貴久。取った異名は“北海の荒熊”だった。

“和製ヘラクレス”と呼ばれた栗橋
昭和から平成にかけて「2」を背負っていたのは“和製ヘラクレス”
栗橋茂だ。由来は筋骨隆々の肉体。“悲運の闘将”
西本幸雄監督に怒鳴り返したというエピソードに加え、酒にまつわる伝説も豊富で、この豪傑にピッタリの異名だった。やはり全力プレーでファンに沸かせて、79年に初のリーグ優勝、80年にリーグ連覇を飾った近鉄で、栗橋は79年に32本塁打、80年には打率.328。パワー一辺倒ではない高い技術を兼ね備えた好打者だった。近鉄で「2」は最初から最後まで欠番だったことがないが、一貫して「2」を背負い続けた栗橋の16年間は系譜で最長だ。
パールスには近鉄きっての安打製造機

近鉄で通算1877安打を放った小玉
近鉄が強くなったのは西本監督が就任してからで、いわゆる”猛牛打線””いてまえ打線”の時代。「2」のキャラクター性も強く、選手たちの異名も元気があったが、それまでの近鉄は“お荷物”と揶揄されるほど優勝とは無縁のチームだった。それでも、「2」は渋い好打者を輩出している。栗橋の前任は指導者として名を残した
一枝修平で、
中日から来て
阪神へ転じるまでの2年間。その前の
飯田幸夫は66年に入団して71年オフに中日へ移籍するまで背負い、内野も外野もこなす名バイプレーヤーだったが、中日では代打サヨナラ満塁本塁打でもインパクトを残している。初代の
宍戸善次郎もバックアップとして機能したメガネの遊撃手だったが、2年で引退。その後継者は“円月打法”の
杉山光平で、3年で南海(現在の
ソフトバンク)へ移籍してブレークした。
55年に「2」を継承したのが3年目の
小玉明利。53年にテストを受けて入団したときは「52」で、翌54年に三塁の定位置をつかみ、オフに背番号を「2」に。兼任監督となった67年に途切れたが、66年まで13年連続でシーズン100安打を超えた。69年オフに阪神で引退するまで通算1963安打。散発“ピストル打線”の時代、近鉄で放った通算1877安打は、近鉄の歴史で永遠に頂点で輝き続ける数字だ。
【近鉄】主な背番号2の選手
杉山光平(1952~54)
小玉明利(1955~67)
栗橋茂(1974~89)
鈴木貴久(1990~2000)
的山哲也(2001~04)
文=犬企画マンホール 写真=BBM