初登場から4年後に

阪神で背番号「00」を着けた亀山
広島で1983年に初めて登場した「0」は、第1号の
長嶋清幸が活躍したこともあり、浸透は早かった。翌84年には南海(現在の
ソフトバンク)で
立石充男が着けてパ・リーグに普及、86年には近年は欠番が続いている
日本ハムで
大畑徹が着けて、その後は足踏みした時期もあったが、96年に
西武で
羽生田忠克が着けたことで、当時の12球団すべてで「0」の選手が出そろったことになる。
阪神の初登場は88年のことだったが、そのシーズン途中に異変が勃発した。85年にリーグ優勝、日本一の立役者となり、翌86年まで2年連続で三冠王に輝いたバースが退団した経緯については、阪神の「44」を紹介した際に触れている。バースの抜けた穴が大きいことは誰の目に見ても明らかであり、この緊急事態に阪神は外野手の
ジョーンズを獲得する。この助っ人に与えられたのは、バースの去った「44」ではなく、「00」という異色、というよりも異質な背番号。阪神では、立て続けに「0」「00」が登場したことになる。
だが、近年では「0」と同様、ありふれた背番号となっている「00」だが、このときは異質なだけの背番号で終わりかけている。ジョーンズはオフに解雇。その後も「0」は
中野佐資が背負い続けたが、翌89年に阪神を含む全12球団で「00」を着ける選手は現れなかった。だが、その翌90年には、いち早く「0」で追随した南海の後身であるダイエーでウィルソンが、続く91年には「0」を誕生させた広島でもアレンが着けて、助っ人の背番号として浸透し始め、ダイエーでは日本人の選手によるリレーもスタートする。
そして92年、発祥の阪神でも「00」が復活した。これで、それまでは奇をてらっている印象も強かった「00」の物語が、ようやく動き出す。まだ一軍の経験も乏しい「67」の若者を見て、
島野育夫コーチが「ああいう足のある選手の背番号は、もっと軽いほうがいい」と言ったことがキッカケだという。とはいえ、1ケタの背番号を着けるには実績が足りない。どの背番号よりも軽そうな「0」には中野がいた。こうして阪神の「00」を背負うことになったのが
亀山努だった。
ドラフト外で「00」が登場することになる88年に入団した亀山は、その「00」で開幕を一軍で迎えると、着実に頭角を現していく。次のプレーをイメージするために塁の上でしゃがむクセがあり、そのときの「00」は沈黙。そこから果敢なヘッドスライディングで次の塁上に踊った。このヘッドスライディングは亀山のトレードマークとなり、メリハリのきいた「00」はファンの期待を象徴する若々しい背番号となっていく。亀山は「63」の
新庄剛志と“カメシン・コンビ”と呼ばれて人気を集め、阪神も優勝を争った。
パッと咲き、ゆるやかに散る?

田中は8年間、背番号「00」を着けた
92年は最終的に2位で閉幕を迎えた阪神。翌93年は飛躍が期待されたが、2年連続で4位に終わり、ふたたび低迷に沈んでいく。亀山も故障が続いて一軍から遠ざかり、97年オフに現役を引退した。
亀山が去り、阪神の低迷も続いたが、「00」の歴史は途切れなかった。ただ、物語は変化を見せる。他のチームでは移籍で加入したベテラン選手のナンバーという印象が強くなっていた「00」だが、阪神でも98年は
米崎薫臣、99年は
城友博が1年ずつ着けて引退して、全体的な傾向に合流しかける。2000年は7年目の
平尾博司が継承するも、翌01年シーズン途中に西武へ移籍。だが、その翌02年に8年目の
田中秀太(秀太)が「60」から変更してくると、息の長い系譜に戻る。
田中は03年にはチームに不可欠なバックアップとして102試合に出場してリーグ優勝に貢献。その引退で10年に「2」から「00」の後継者となった
柴田講平は翌11年に自己最多の104試合に出場した。柴田の移籍で17年に「4」から変更した
上本博紀も「00」1年目から125試合に出場して、2年ぶりに規定打席にも到達。その引退で迎えた21年に背負うのが
巨人から来たプロ6年目の
山本泰寛だ。
ただ、パッと咲き、ゆるやかに散っていく傾向になりつつあるのも事実。発祥の阪神で、他のチームと違う「00」の新たな物語を紡ぐのは山本かもしれない。
【阪神】主な背番号00の選手
亀山努(1992~97)
田中秀太(2002~09)
柴田講平(2010~16)
上本博紀(2017~20)
山本泰寛(2021~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM