“医学博士”の異名も

個性派ぞろいの中日投手陣からの信頼は厚かった木俣
鉄砲肩と強打を武器に、長く中日のマスクをかぶった頼れる司令塔が
木俣達彦だ。中京商高から進んだ中京大では1年秋に首位打者とMVPを手にしたが、「このレベルの野球では物足りない」と中退し、1964年中日に入団した。
1年目から56試合出場も、パワー不足を感じ、当時球界でタブー視されていた筋力アップのため、重いバットを振り込み、腕立て伏せを繰り返して肉体改造。2年目からレギュラーの座をつかんだ。
69年にはセの捕手で初の30本台、33本塁打を放ち、初のベストナインに。大きく足を上げるフォームはあこがれの
王貞治(
巨人)をマネしたもの。右打ちと左打ちの違いがあるので、王の連続写真を裏焼きして研究したという。一本足から振り下ろすようなスイングと、童話の金太郎のような風貌もあり、新聞記者が“マサカリ打法”と命名した。
しかし、73年は打撃低迷。毎日200スイングを日課とする中で生まれたのが、変則マサカリ打法だ。
「疲れて息をついたとき、グリップが下がった。それがしっくりきてグリップをいったん下げ、ヒッチする打法にしてみた。息を吸ってから2度息を吐いて振るのが極意なんです。王さんの一本足と宮本武蔵の本に書いてあった呼吸法との合作ですね」
74年には王と首位打者争いを演じ、最終的には.322で王に次ぐ2位だったが、8月末時点では.348で首位に立っていた。

独特のバッティングフォームで打球を飛ばした
リードに関しては緻密に組み立てたデータをベースにしながらも、投手の良さをいかに引き出すかを最優先に考えた。「星野(仙一)もそうだけど、超一流の投手ならリード何て必要ないんですね」という。
アイデアマンとしても知られ、キャッチングの際、ノドを防御するスローガードを考案したり、トレーニングや栄養、体のケアの知識も豊富。“医学博士”の異名も取った。
82年、ヒザの故障に加え、
中尾孝義の台頭もあって出番が激減し、引退。捕手として1998試合出場は
谷繁元信(元中日ほか)に抜かれるまで、セ・リーグの最多記録だった。
写真=BBM