大学時代からの持病

1980年、アキレス腱痛を克服して首位打者を獲得した谷沢
1976年、最後に
張本勲を逆転して首位打者を獲得した
谷沢健一。
中日の中心選手としてはもちろん、日本球界を代表するヒットメーカーへと着実に歩を進めているかのように思われた。ところが、その2年後から谷沢の試合出場機会が見る見るうちに減ってきた。78年には70試合に減り、翌79年はわずか11試合出場である。
原因はアキレス腱痛。ただ、アキレス腱が傷ついたわけではなく、アキレス腱の最下部、カカトとつながる部分が炎症を起こし、アキレス腱に痛みが出るという厄介なもの。大学時代からの持病だった。
それまでも軽い痛みはあったものの、我慢できないほどではなかった。ところが、いわゆる“勤続疲労”、さらに人工芝を採用する球場も増え、知らないうちにアキレス腱への負担が増し、悪影響をもたらしていったようだ。痛みとともに、患部が硬くなって満足に走れない日々が続く。有効な治療法が見つからず、ついには引退の危機を叫ばれるほどになった。
そんなとき、ファンから日本酒を塗ってマッサージする療法を聞かされた。そして、たどり着いたのが、九州で日本酒を用いる治療法を指導していた小山田秀雄氏。谷沢は小山田氏を「日本酒マッサージで私のアキレス腱をよみがえらせ、私の心も回復させた名医」と呼ぶ。風呂上がりに、酒に湿らせたガーゼで患部をぬぐっては丁寧にマッサージを繰り返す。ゆっくりではあったが、痛みが薄らいでいった。
79年9月23日、ついに一軍復帰。横浜大洋戦(ナゴヤ)の7回に代打で登場したときには、中日ファンの大声援が谷沢に降り注がれた。
そして80年は、開幕からヒットを連発。ついには打率.369の高打率で2度目の首位打者を獲得、あわせてカムバック賞も受賞した。
中日ファンが、谷沢の打席の際に鳴らすヒッティング・マーチは、この年から『帰ってきたウルトラマン』のテーマになった。
写真=BBM