“革命”の原動力
現在は完全に定着した投手分業制。先発する投手が完投する姿を目にすることも少なくなったが、古くは投手が先発すれば完投するのが当然、救援のマウンドに立つのは先発に失格の烙印を押された格下の投手とされていた。この流れが一変したのは1977年、南海(現在の
ソフトバンク)の野村克也監督に「革命を起こそう」と言われた
江夏豊が救援に専念して成功したことからとされる。
確かに、
阪神のエースだった江夏がリリーバーとして再生したのは革命的だったが、これは革命の“ゴール”だったのかもしれない。それ以前にもリリーバーとして成功した投手はいて、それは”革命”の南海も例外ではなかった。江夏の転向が騒がれたとき「リリーフやりだしたのは僕が先でしょ!」と野村監督に訴えたのが佐藤道郎。パ・リーグの初代セーブ王となった右腕だ。ただ、佐藤は野村監督からは「我慢せい。人気者には勝てないんだ」と言われてしまったが……。
佐藤が入団した70年は、野村が兼任監督となったシーズンでもあった。リリーバーとしての適性を見出された佐藤は、1年目から救援を中心にリーグ最多の55試合で投げまくって18勝、規定投球回にも到達して防御率2.05で最優秀防御率、新人王に。南海にとって最後のリーグ優勝となった73年にもリーグ最多の60試合に登板して11勝、セーブ制度が導入された翌74年にもリーグ最多、自己最多の68試合でフル回転して規定投球回に到達、自己最高の防御率1.91で2度目の最優秀防御率にも輝いている。
江夏が阪神から移籍してきた76年は自己最多の16セーブで2度目のセーブ王。“革命”の翌77年は先発に転向、常々「“アガリ”があるのがうらやましい」と思っていたことから転向を快諾した佐藤はスターターとしても機能して12勝を挙げたが、結局“アガリ”の日も試合の結果が気になり、とてもゆっくりする心境ではなかったという。
人気者かどうかはともかく、確かに佐藤は“革命”の立役者ではなかったのかもしれない。ただ、“革命”を長いスパンで考えたとき、佐藤の成功が“革命”へ突き進んでいく原動力となったことも確かだろう。
文=犬企画マンホール 写真=BBM