短期間ながら初代も左腕

19年間にわたって広島の背番号「24」を背負い続けた大野
西鉄の黄金時代を象徴する
稲尾和久が背負い、現在の
西武で永久欠番となっている「24」。シーズン42勝はプロ野球タイ記録、シーズン20連勝、シーズン78試合登板も長くプロ野球記録だった鉄腕だが、酷使もあって現役の後半は故障との闘いとなり、着けた期間は14年、指導者としての時期も含めて17年だった。それを2年だけ上回り、しかも選手としてだけで19年の長きにわたって背負い続けたのが広島の
大野豊だ。期間の長さは
阪神の
桧山進次郎の22年に次ぎ、
ロッテの
醍醐猛夫に並ぶ歴代2位タイ。醍醐は捕手で、稲尾に強い“鉄腕キラー”だったが、大野は現役生活22年で広島ひと筋、43歳まで投げ続けた左の鉄腕だった。
最初の背番号は「60」だった。島根県の出雲市信用組合では軟式でプレー。プロ野球に進むことなど思ってもみなかったというが、野球教室のためにやってきた広島の
山本一義コーチ、右腕の
池谷公二郎らと出会ったことが契機となり、広島のテストを受けて入団した。1年目から一軍のマウンドを踏むも、その初登板で炎上。一死しか奪えず、防御率135.00という数字を残してしまう。それでも2年目には背番号も「57」と少しだけ小さくなり、プロ初勝利。3年目には
江夏豊につなぐセットアッパーとしてリーグ優勝、初の日本一に貢献する。
「24」を背負ったのは、迎えた4年目の1980年だった。ほぼ時を同じくして幕が開けたのが広島の黄金時代だ。大野は先発、救援と役割を問わずに投げまくり、広島が優勝から遠ざかってからも第一線で投げ続けて、最終的に707試合の登板で通算148勝138セーブ。近年は少なくなくなったが、まだ当時は40歳を過ぎて現役を続けているだけでも離れ業だった時代に、プロ21年目の97年には防御率2.85で2度目の最優秀防御率に輝き、現役ラストイヤーとなった98年には42歳で開幕投手を務め、開幕投手の最年長記録を更新している。
野手も多いプロ野球の「24」だが、どちらかといえば左腕は少数派。この点でも大野の存在は異彩を放つが、広島がプロ野球に参加した50年に初代となったのは左腕の
箱田義勝だった。ただ、シーズン途中に右腕の
梅田正巳が2代目となって、箱田は「8」の2代目に。「24」は翌51年に野手で2年目の
磯田憲一に受け継がれる。磯田は成功率の高さから“バントの職人”と評された職人肌で、守っても内野と外野を兼ねて57年までプレー。外野手としてプロ入りも三塁手に転向したプロ6年目の
原田信吉が翌58年に継承する。
ただ、以降は原田、新人で右腕の
山本兵吾、同じく
三浦和美が3年ずつでリレー。67年にプロ5年目で捕手の
久保祥次が「40」からの変更で後継者となり、105試合でマスクをかぶって正捕手に。だが、久保も72年オフに近鉄へ移籍。翌73年から2年間は助っ人で外野手のヒックスが着けたが2年で退団した。迎えた75年は広島が初のリーグ優勝を飾ったシーズン。「24」は左腕の背中に戻る。
20世紀のVイヤーでは常に左腕の背に

阪急から広島へ移籍し、75年から5年間、背番号「24」を着けた渡辺
プロ4年目の75年に広島へ移籍してきて「24」を背負ったのが左腕の
渡辺弘基だった。渡辺は左のセットアッパーとして55試合に登板、規定投球回は遠かったものの、防御率1.85の安定感でリーグ優勝を支える。翌76年には稲尾に迫る73試合のフル回転だった。その渡辺が79年の日本一を見届けて引退すると、後継者となったのが大野。広島は20世紀に6度のリーグ優勝、3度の日本一を飾っているが、栄光のシーズンに広島の「24」は常に左腕の背中にあったことになる。

00年にドラフト1位で入団した左腕・河内も背番号「24」を背負った
大野の引退により99年の1年間は欠番となったが、翌2000年にはドラフト1位で入団した新人で左腕の
河内貴哉が後継者となり、左腕の系譜が続く。ただ、鉄腕の継承とまではいかず、高卒ルーキーながら1年目から即戦力となった河内は故障に見舞われ、10年からは育成に。それでも12年には支配下、そして「24」にも返り咲き、翌13年には21試合連続無失点と復活、15年までプレーを続けた。翌16年には新人で右腕の
横山弘樹が継承するも、やはり故障で通算2試合の登板のみ。横山が19年オフに引退してからは、広島の「24」は次なる後継者を待つ。
【広島】主な背番号24の選手
磯田憲一(1951~57)
久保祥次(1967~72)
渡辺弘基(1975~79)
大野豊(1980~98)
河内貴哉(2000~09、12~15)
文=犬企画マンホール 写真=BBM