大塚晶則は2年がかりでメジャー・デビューした。近鉄でクローザーを務め、2002年のシーズン終了後にポスティングシステムでの移籍を目指した。ところが入札なし。中日に移籍して03年を過ごし、シーズン終了後に再びポスティングして今度はパドレスが30万ドルで落札。悔しい思いをしながら、夢を叶えた。 アメリカで根を下ろそうと

メジャーで生き抜く思いは強かった大塚
パドレスにはのちに殿堂入りするトレバー・
ホフマンという絶対のクローザーがいた。だが2003年には右肩を痛め、わずか9試合しか登板できず、救援投手は必要だった。大塚がパドレス入りした04年、ホフマンは復帰。大塚のデビュー戦は開幕2戦目、4月6日に敵地で行われたドジャース戦だった。4対4と同点の8回に登板し無失点も、9回に代打ロビン・ベンチュラに右前サヨナラ打を浴びて敗戦投手になった。
厳しいスタートを切ったが、その後は実力を発揮。縦のスライダーを武器に13試合連続無失点で、ホフマンにつなぐセットアッパーの地位を固めた。その間、4月24日のダイヤモンドバックス戦では初勝利。4月30日の本拠地でのメッツ戦では、ホフマンの休養日の9回のマウンドに上がり、初セーブを挙げた。
1年目はチーム最多の73試合に登板しリーグ最多34ホールドをマーク。7勝2敗2セーブ、防御率1.75と、球団の期待を大きく上回る好成績を収めた。
アメリカでの大塚を語る上で忘れてはいけないのは06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)である。日本代表のクローザーとして、胴上げ投手になった。この年オフにレンジャーズにトレードされたが、会場はホームのペトコ・パーク。ホフマンの登場曲であるAC/DCの『ヘルズ・ベルズ』に乗って9回に登場した。実は大塚がホフマンにWBCでこの曲を使っていいかと許可を求めたところ「どんどん使ってくれ」と快諾を得たのだった。
この逸話で分かるとおり、チームメートと良好な関係を築いた。英語の勉強を欠かさず、積極的にチームに溶け込み、監督、コーチやフロントともコミュニケーションを図り、アメリカで根を下ろそうと実践した。
メジャーではパドレスとレンジャーズで2年ずつ、計4年間で236試合に登板して13勝15敗39セーブ、防御率2.44だった。通算防御率は2.34の
斎藤隆(元ドジャースほか)に次ぎ、日本人選手では2位。最後は右ヒジの故障で引退したが、輝かしい足跡を記した。ちなみに長男の虎之介くんはサンディエゴ州立大の外野手。父子2代のメジャー・リーガーを目指している。
『週刊ベースボール』2021年5月31日号(5月19日発売)より
文=樋口浩一 写真=Getty Images