大毎1年目に移籍の傾向が始まった?

背番号「7」でチームを日本一へけん引した西岡
“ミスター・
ロッテ”の「8」と同様、打線の中軸を担う好打者の系譜となっている「7」。ロッテの歴史については「8」を紹介した際に詳しいが、その「8」を一貫して背負い続けた
有藤通世(道世)がチームひと筋を貫いたという点で貴重な存在だったように、「7」も粒ぞろいのナンバーであるものの、チームひと筋という選手は少数派だ。この2021年はFAで20年に
ソフトバンクから来た
福田秀平が背負うが、これもFAで
楽天へ移籍した
鈴木大地の「7」を継承したもの。ただ、福田は移籍1年目から故障が続く不運。ラッキーセブンともいわれて幸運の印象もある「7」ではあるが、ロッテの「7」には不遇の印象もある。
鈴木についてはロッテの「35」を紹介した際にも触れているが、1年目から戦力となった鈴木は3年目の14年、11年から欠番が続いていた「7」に変更。鈴木の前任はドラフト1巡目で03年に入団した
西岡剛(TSUYOSHI)だ。1年目から「7」を与えられた西岡は、3年目の05年に41盗塁で盗塁王に輝き、リーグ優勝に貢献。ロッテがシーズン最終戦で3位に滑り込み、そこからCS、日本シリーズと勝ち抜いて日本一に輝いた“史上最大の下克上”の10年には、スイッチヒッターとしてはプロ野球で初めてシーズン200安打を突破する206安打を放ち、打率.346で首位打者に。これを置き土産にポスティングでツインズへ移籍していった。
西岡が背負った期間は8年だが、これが歴代2位で、中軸が並ぶ1ケタの背番号としては短い印象だ。ロッテが毎日としてプロ野球に参加した1950年に初代となった
奥田元は29歳でプロ入りした内野手で、43試合の出場ながら13盗塁を決めた韋駄天だったが、わずか2年で近鉄へ移籍。2代目となったのは同じく内野手で新人の
島田恒幸で、チームひと筋で終わった貴重な存在だが、55年に正二塁手となったものの、のちに指導者として手腕を発揮する
須藤豊にレギュラーの座を奪われて、翌56年オフに引退した。
その翌57年に「7」の3代目となった
矢頭高雄が背負ったのが歴代トップの10年だ。矢頭は大映で56年にプロ入りして即戦力となった「6」の外野手で、その大映が毎日と合併して大毎となったことで57年に“移籍”。その後も変わらずレギュラーとして機能して、60年も主に右翼手としてリーグ優勝に貢献したが、62年だけは三塁をメーンにレギュラーを張っている。
67年オフに引退した矢頭の後継者が、メジャー通算101本塁打の助っ人で“足長おじさん”の異名もあったアルトマン。74年には三冠王をうかがう活躍も、シーズン途中に大腸ガンが見つかり離脱。これでチームが一丸となり、ロッテとなって初の日本一へと駆け上がっていく。これが結果的にアルトマンのラストイヤーとなったが、期間は歴代3位タイの7年。そこから「7」には助っ人のナンバーという印象が強くなっていった。
印象的な助っ人たち

98年、ロッテに復帰したフランコは「7」を背負った
78年に後継者となったのがレオン。すでにロッテの「5」で活躍していたリーの弟だが、兄を残して82年オフに解雇されて大洋(現在の
DeNA)へ。ロッテが千葉へ移転してから初めて「7」を背負った助っ人が独特の打撃フォームでもインパクトを残した
フリオ・フランコ。95年の1年だけプレーして退団したが、選手会の要望で98年に異例の復帰を果たして「7」となり、やはり助っ人としては異例の主将を務めている。2度目の在籍も1年で退団したフランコの後を受けたのが来日1年目に本塁打を放った試合では負けない“不敗神話”もあった
ボーリックで、この助っ人たちのうちレオン、フランコ、ボーリックが内野手。2002年オフにボーリックの後を受けたのが西岡だ。
一方、82年に「23」から変更してレオンの後継者となり、アルトマンと並ぶ7年間「7」を背負ったのがダイナミックな遊撃守備で鳴らした
水上善雄。その後継者も内野手で、1年目から「7」を背負い、粘り強い打撃も光った南淵時高だが、水上は
広島へ、南淵も
中日へと移籍している。現役の福田は外野手だが、今後の物語は福田の復活から再始動することだけは間違いなさそうだ。
【ロッテ】主な背番号7の選手
矢頭高雄(1958~67)
アルトマン(1968~74)
水上善雄(1983~89)
西岡剛(2003~10)
福田秀平(2020~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM