“ID野球”黄金時代の幕開けに

野村ヤクルト初優勝の92年、フル回転の力投を見せた岡林
この2021年は
バンデンハークが背負うヤクルトの「15」。その古巣は21世紀に入って黄金時代に突入した
ソフトバンクだ。一方、21世紀は2度のリーグ優勝にとどまっているヤクルト。01年は近鉄の悲願を破って日本一に輝いたが、15年はソフトバンクに1勝4敗と届かず、第2戦ではバンデンハークがヤクルトの前に立ちはだかっている。そんなヤクルトにも黄金時代といえる時期があった。ソフトバンクほどの巨大な戦力を誇っていたわけではない。それでも、どこかにあぶなっかしさを抱えながらも、好守にキャラクターが躍動した“ID野球”の時代だ。率いるは
野村克也監督。このとき「15」を背負っていたのが
岡林洋一だった。
パラグアイに生まれ、14歳まで過ごした異色の経歴を持つ岡林。その後、高知商高で甲子園に出場して、専大からドラフト1位で野村監督2年目のヤクルトへ入団して即戦力に。1年目から救援を中心に12勝12セーブ。これでヤクルトは11年ぶりAクラス、3位に浮上する。そして迎えた1992年。野村監督の「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という名言もあったシーズンだ。投手陣が安定感を欠く中で、岡林は先発の軸として投げまくってチーム最多の15勝を挙げる。
だが、優勝チームの最多勝ながら、タイトルには届かず、ベストナインからも漏れる悲運。さらには
西武との日本シリーズだ。第1戦(神宮)では延長12回を完投、
杉浦享の劇的な代打サヨナラ弾を呼び込んだが、第4戦(西武)でも完投して8回1失点の好投も敗戦投手に。3勝3敗で迎えた第7戦(神宮)では延長10回を投げ抜いて、やはり1失点のみの粘投を見せながら、またしても苦杯を喫した。防御率1.50の安定感ながらも1勝2敗。翌93年からは故障との闘いとなり、離脱、復帰を繰り返す。94年に11勝を挙げたのが最後の2ケタ勝利。20世紀の終焉とともに現役を引退した。「15」を背負った10年間は最多タイとして残るものの、ほろ苦い黄金時代の幕開けに輝いた“悲運のエース”だった。
ヤクルトは2リーグ制となった50年にプロ野球へ参加した国鉄が起源だが、その1年目から「15」は投手ナンバー。2代目は54年にチームで初めて打率3割をマークして、やはり初のベストナインに選ばれた二塁手の
箱田弘志(淳)だが、51年に入団したときは投手で、通算3勝で53年シーズン途中に転向、そのオフに背番号も「3」となっている。
低迷期に2度の2ケタ勝利
箱田の後は右腕の
田代照勝や左腕の
鵜飼勝美らがリレー。63年に
巨人から来た外野手の
高林恒夫が後継者となり、その引退により同じ外野手で助っ人の
ジャクソンが継承する脱線もあったが、抜群の身体能力で“褐色の弾丸”の異名もあったジャクソンが箱田と同様「3」に転じ、68年に
石岡康三が「15」となったことで投手の系譜に戻る。石岡はチームが国鉄だった64年に入団した右腕で、「26」からの変更。「15」となって2年連続2ケタ勝利、ヤクルトの初代「15」となり、76年までプレーして低迷期を支えた。
その後も投手の系譜が続いたが、88年に“脱線”して、デシンセイ、パリッシュ、バニスターら印象的な助っ人が1年ずつリレー。好物を「ワニの肉」と語って列島を震撼させた(?)パリッシュは42本塁打で本塁打王に輝くも退団、左腕のバニスターはシーズン途中に故障で退団となり、これを継承したのが岡林だった。
21世紀に入って、ドラフト1位で2001年に入団した右腕の
平本学が1年目から「15」を背負ったが、武器の剛速球を生かせず。「15」は高校生ドラフト1巡目で06年に入団した左腕の
村中恭兵が継承する。村中は10年に自己最多の11勝、12年にも10勝と2度の2ケタ勝利も、岡林と並ぶ「15」10年目の15年にヤクルトはリーグ優勝も、村中は一軍登板なく、オフには「43」に。2年の欠番を挟んで18年には右腕で新人の
大下佑馬が背負ったが、21年は「64」でプレーしている。
助っ人が背負うことが系譜のエポックとなる「15」。バンデンハークが新天地のヤクルトでも印象に残る活躍を残せるか。物語は過渡期にあると言えそうだ。
【ヤクルト】主な背番号15の選手
箱田弘志(1951~53)
石岡康三(1968~76)
岡林洋一(1991~2000)
村中恭兵(2006~15)
バンデンハーク(2021~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM