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背番号物語

【背番号物語】巨人「#50、54&55」駒田、槙原、そして吉村…“50番トリオ”が躍動した1983年

 

初期は指導者がリレーした「50」


左から駒田、吉村、槙原の“50番トリオ”


 20世紀に生まれた若いファンにとってはピンと来ないかもしれないが、巨人の「50」、「54」、そして「55」という背番号を並べたとき、20世紀、特に1980年代のプロ野球を知るファンには特別な意味を持つはずだ。近年は50番台の大きな背番号で活躍を続ける選手も少なくないが、まだ当時は50番台といえば二線級の選手が着けている印象もあった時代だ。

背番号「50」を背負う駒田


【巨人】主な背番号50の選手
水原茂(1949)
高橋明(1961)
駒田徳広(1981〜87)
後藤孝志(1988〜98)
戸根千明(2015〜)

「50」の初代は1949年にシベリア抑留から生還して7試合に出場した水原茂で、そのオフに引退して監督に就任、黄金時代を築いた名将だ。その後しばらくは指導者がリレーしている。最長は内野と外野を兼ねた名バイプレーヤーで、代打通算28安打を残した後藤孝志(孝次)の11年。現役はプロ1年目の2015年から一貫して背負い続ける左腕の戸根千明だ。

【巨人】主な背番号54の選手
倉田誠(1965〜68)
槙原寛己(1982〜86)
藤村大介(2008〜11)
高木勇人(2015〜17)
直江大輔(2019〜20、21〜)

「54」は、この21年に育成から支配下への復帰を果たした右腕の直江大輔が背負う。直江は育成でも「054」だった。表に並べた5人の他にも、2年間と期間は短いが、ソフトバンクでも「54」を着けていた右腕のホールトンが助っ人では初めて両リーグ2ケタ勝利を達成している。

背番号「55」を背負う吉村


【巨人】主な背番号55の選手
久保木清(1953)
淡口憲治(1972〜73)
吉村禎章(1982〜85)
松井秀喜(1993〜2002)
大田泰示(2009〜13)

「55」は以前と重複するが、14年から欠番。“ゴジラ”松井秀喜が最長だ。だが、今回の主役は松井ではない。「50」の駒田徳広、「54」の槙原寛己、そして「55」の吉村禎章の“50番トリオ”だ。

新人王に輝いた「54」


83年、新人王に輝いた槙原


 駒田についても以前、この「50」と2チームで背負った「10」について紹介している。“トリオ”がそろったのは82年で、駒田が1年だけ先輩。ドラフト1位で82年に入団したのが右腕の槙原で、同3位が吉村だが、一軍デビュー第1号も吉村だ。ただ、1年目は4試合の出場で、ゼロ安打に終わっている。そして迎えた83年、文字どおり号砲を打ち鳴らしたのが駒田だった。開幕2試合目でのプロ初打席で満塁弾を放つプロ野球で初めての快挙。すぐに槙原がプロ初登板初完封で続く。これで勢いがついたのか、巨人も前半戦は首位を独走した。

 外野手の吉村は助っ人スイッチヒッターのスミス、この83年に76盗塁を決めて2年連続で盗塁王となった松本匡史、「55」の先輩でもある淡口憲治ら盤石の外野陣に阻まれて代打での起用がメーンだったものの、シーズン104打席ながら打率.326、3打席連続本塁打もあった。駒田も負けていない。レギュラー獲得には至らなかったが、199打席で12本塁打。とはいえ、もちろん両者とも規定打席には届いていない。

 その一方で、31試合、184イニングに投げて規定投球回に到達したのが槙原だ。最終的には3完封を含む9完投、12勝1セーブを挙げて、防御率3.67はリーグ9位。後半戦は広島に猛追された巨人も最終的には6ゲーム差で2年ぶりリーグ優勝。槙原は新人王に輝いている。

 巨人ではV9という黄金時代も過去となり、長嶋茂雄監督の退任と王貞治の現役引退が重なって迎えた80年代、大きな3つの背番号は新しい時代を象徴するようでもあった。だが、こうした大きな背番号のままプレーを続けて、自らの象徴にまで昇華させる時代は、まだ訪れていなかったのかもしれない。86年に吉村は「7」に、翌87年には槙原が「17」に、その翌88年には駒田が「10」に“出世”。実質的には3年のみの“トリオ”だった。

 背番号のトリオで選手を売り出すようなことが見られなくなった昨今。3人の若者が輝いた遠い昔の背番号物語だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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