プロ野球2号、パ・リーグ1号

ダイエー時代の石毛
この2021年は内野手の
高田知季が背負う
ソフトバンクの「0」。プロ9年目の高田は1年目から背番号の変更がなく、歴代でも最長となっている。1983年にプロ野球で初めて「0」が登場したことは
広島の「0」を紹介した際に詳しいが、翌84年に「0」を導入したのが南海、現在のソフトバンクだった。プロ野球では第2号、パ・リーグでは第1号だ。
南海は88年を最後に歴史を終え、チームはダイエーに、そして本拠地は大阪から現在まで続く福岡へと移転。徐々に普及していった「0」には新天地を求めた大物たちが着ける傾向が生まれ、現在も移籍したベテランのイメージが強いナンバーだが、この印象を顕著にしたのはダイエーだったといえるかもしれない。
思い切りの良さと俊足を武器に
日本ハムのリードオフマンとして活躍した
島田誠は「最後は地元に帰りたかったので、頼んで」(島田)91年にダイエーへ移籍して「0」の4代目に。チームリーダーとして黄金時代の
西武を引っ張って無冠ながら86年にMVPとなった
石毛宏典は監督への就任の話を蹴って現役にこだわり、「どう生きてきたかより、どう生きていくかが大事」と95年にダイエーへFA移籍。島田は1年でユニフォームを脱ぎ、石毛は移籍1年目だけ「0」を背負い、最後は西武で着けていた「7」に変更して現役を引退している。ダイエーだけでなく、その後も新天地で1ケタの背番号は埋まっているが2ケタの背番号にも違和感がある大ベテランが「ゼロからの再出発」という意味合いで1ケタの「0」を着けるケースは散見される。
島田も石毛も「0」だったのは1年に過ぎないが、もともと南海の「0」はベテランの域に差し掛かった内野手の背中で生まれたものだ。初代は南海ひと筋の
立石充男で、「41」から83年に「1」となるも、わずか1年で「0」に変更。その84年には隠し球を成功させて話題を集めた。だが、すでにプロ9年目となっており、86年オフに現役を引退している。初代の立石、のちの島田や石毛が残したインパクトも絶大だが、全体では若手の出世ナンバーという印象が強い系譜。翌87年に2代目となったのは対照的な若武者で、プロ4年目の
佐々木誠だ。
ダイエー時代の出世頭

87、88年の南海時代に「0」を着けた佐々木
「57」で2年目の85年から徐々に出場機会を増やした佐々木は、「0」で初めて規定打席に到達。南海ラストイヤーの88年には97試合の出場ながら16本塁打と破壊力でもアピールした。新生ダイエーでは、打者では屈指のスター選手ということもあって「3」に変更。首位打者、盗塁王となったのは「3」4年目となる92年だった。
ダイエーの初代、歴代では3代目の「0」となったのはプロ5年目、南海では「43」だった
坂口千仙だ。坂口は熊本の出身で、坂口にとっては地元の九州への“凱旋”とともに勝ち取った1ケタの「0」だったが、のちにタイトルを勝ち取った佐々木に比べれば伸び悩み、91年に日本ハムへ。このトレードで移籍してきて「0」を着けたのが島田だ。
翌92年に5代目となった内野手の
浜名千広は1年目から「0」を背負った第1号。ダイエー時代の出世頭といえる存在で、1年目から正遊撃手の座に就いて、95年には「8」に変更、そのまま99年にダイエー初のリーグ優勝、日本一にも貢献している。そこから石毛、欠番を1年ずつ挟んで97年に後継者となった
鈴木慶裕も島田と同様、日本ハムから来た俊足の外野手で、最後の2年間をダイエーの「0」で過ごした。99年に「0」を継承した
大越基はドラフト1位で93年に入団した右腕だったが、「0」となったのは外野手に転向して4年目。これで一気に出場機会を増やして、俊足強肩で初の栄光を支えた。
大越の引退で04年に後継者となった
高橋和幸も96年に入団した左腕だったが、すぐ外野手に転向、プロ9年目に「68」から変更したものだったが、この04年が最後の一軍出場となり、翌05年オフに引退。その翌06年にはプロ6年目、
中日から来た
仲澤忠厚は内野のバックアップとして機能、08年には58試合に出場している。12年オフに引退した仲澤の7年を更新したのが現役の高田だ。
【ソフトバンク】主な背番号0の選手
立石充男(1984~86)
佐々木誠(1987~88)
浜名千広(1992~94)
仲澤忠厚(2006~12)
高田知季(2013~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM