最初と最後のヘッドスライディング

プロ野球人生最後の打席で凡打に終わったが、一塁まで全力疾走した長谷川
一般的にも投手と打者が混在している「24」。投手では
広島の
大野豊や
西武で永久欠番となっている西鉄の
稲尾和久ら左右の鉄腕、打者でも
巨人だけで
高橋由伸や
中畑清など左右の好打者が過去にも「24」を背負って活躍してきた。
ソフトバンクの「24」も、こうした背番号の印象を集約したような系譜となっている。
この2021年いっぱいで現役を引退する「24」の
長谷川勇也は13年の首位打者。07年に入団したときは「30」だったが、09年に中堅手としてレギュラーとなり、6年目の12年に「24」を背負うと、翌13年には198安打、打率.341で最多安打、首位打者のタイトルを獲得した。15年からは故障に苦しむ姿も目立ったが、21年の引退試合でも果敢なヘッドスライディング。自らのラストシーンで最後まで勝利にこだわる魂のバトンを、「24」の後継者に託したようにも見えた。

ソフトバンク移籍初年度は背番号「24」だった内川
長谷川の戴冠は13年だが、その2年前にも「24」の首位打者が誕生している。長谷川の前任で、1年だけ「24」を背負ったのが、現在は
ヤクルトでプレーしている
内川聖一だ。内川のソフトバンク時代といえば「1」の印象が強いが、横浜(現在の
DeNA)からFAで移籍してきて1年目の11年に「24」を背負って、いわゆる統一球の導入で極端な打高投低となって多くの打者が苦しんだシーズンながら、打率.338で首位打者に。内川は横浜でもレギュラーに定着した08年に首位打者となっており、プロ野球2人目の両リーグ首位打者でもあった。ソフトバンクもリーグ優勝、日本一に輝き、内川もMVP。暗黒期の横浜では優勝とは無縁だった内川がリーグ優勝の際、そして
中日との日本シリーズ第7戦(ヤフードーム)で日本一を迎える際にも「24」で涙を流した姿は印象的だった。

背番号「24」を着け南海黄金時代のメンバーとして活躍した岡本
九州は福岡で黄金時代を迎えたホークスだが、大阪に本拠地を置いていた南海にも1950年代に黄金時代があった。このとき「24」だったのが
岡本伊三美だ。49年シーズン途中にテストを受けて入団。このときは「20」を背負ったが、これは一軍の背番号ではない。現在に置き換えれば、育成選手として入団して「120」を着けた、と考えれば、あながち間違ってはいまい。翌50年に「24」を背負って一軍デビュー。その翌51年には代打で初本塁打を放ったが、このとき見せたのが、奇しくも長谷川のラストシーンと同様、ヘッドスライディングだった。
低迷期にリレーした左右の鉄腕
とはいえ、長谷川のラストシーンと岡本のデビューとは趣が異なる。「ブルペンキャッチャーをやっていたら突然、代打と言われ、誰かのバットを借りて打席に入った。給料が安くて自分のバットなんて買えんからね。それで打ったら、ライナー性だったし、必死に走って(三塁に)滑り込んだ」(岡本)打球がフェンスに当たったと勘違いしたヘッドスライディング。なかなかベースから離れず、「ずいぶん笑われました」(岡本)という。若者らしさを感じる逸話だが、そこから岡本は“100万ドルの内野陣”の二塁手として53年に打率.318で首位打者、リーグ優勝に貢献してMVPにも輝いた。63年オフに引退するまで14年を「24」で過ごした岡本は歴代で最長となる。

リリーフとしてダイエーで鉄腕ぶりを発揮した下柳
一方で、左右の鉄腕がいるのもソフトバンクの「24」。ダイエー時代の91年から背負ったのが、「24」へのこだわりが強い左腕の
下柳剛だ。当時の異名は“アイアンホーク”(鉄の鷹)。ダイエー在籍は5年のみだったが、4年目の94年にリーグ最多の62試合に投げまくってリリーフだけで11勝と、最終的に22年の現役生活をまっとうする鉄腕の真価を早くも発揮している。

南海、ダイエーで背番号「24」を着けた右腕・矢野
その前任者で、南海からダイエーにかけて長谷川と同じ9年間「24」を背負った
矢野実も右の鉄腕といえる存在。下柳と同様、南海1年目から「24」でプレーした矢野は、2年目の83年には37試合で5勝。その後はリリーフがメーンとなり、南海ラストイヤーの88年にはリーグ最多の57試合で3勝、ダイエー元年の89年にも50試合で4勝2セーブと、低迷期のチームを支えた。矢野は90年オフに
オリックスへ移籍、93年に復帰したときには「38」を着けている。
【ソフトバンク】主な背番号24の選手
岡本伊三美(1950~63)
矢野実(1982~90)
下柳剛(1991~95)
内川聖一(2011)
長谷川勇也(2012~20)
文=犬企画マンホール 写真=BBM