最長は“東京”日本ハムの熱血漢

日本ハム時代に背番号「1」で北海道を沸かせた新庄
背番号の系譜では独自路線を進む日本ハム。特に北海道へ移転してから、この傾向が強まった印象がある。2017年に右腕の
斎藤佑樹が「18」から「1」へと変更したのも日本ハムらしいものだった。ただ、一般的に“チームの顔”というべき選手が背負う「1」は、むしろ起源のセネタース、東映で独自路線だったものが、チームが日本ハムとなって徐々に一般的なイメージへと近づいてきた感がある。
日本ハムの「1」が、まさに“チームの顔”となったのは北海道へ移転して1年目の2004年、メジャーから日本ハムでプロ野球へ復帰したSHINJO(
新庄剛志)が着けたときだろう。パ・リーグではプレーオフが導入され、球界再編の嵐も吹き荒れて、オフには近鉄が“消滅”するなど、日本ハム以外でもエポックとなるシーズンでもあったが、それまで日本ハムとは縁もゆかりもなかったSHINJOに煽られるように06年には北海道で初のリーグ優勝、日本一に。SHINJOはオフにユニフォームを脱いだから、SHINJOが「1」だった期間は3年のみだった。これも、引退試合では
阪神でデビューしたときの「63」でプレーしたため、プレーオフから日本シリーズは「1」に戻したものの、厳密な期間としては3年に満たないものだ。

背番号「1」でハッスルプレーを見せた広瀬
一方で、着けた期間の最長は13年。ドラフト1位で1986年に入団、98年オフに現役を引退するまで日本ハムひと筋、一貫して「1」を背負い続けた内野手の
広瀬哲朗だ。日本ハムの「1」が一般的な印象に合流したのは、この広瀬からになる。SHINJOとは異なるタイプの“チームの顔”(というよりSHINJOが異色なのだが……)で、優勝から遠ざかっていた時代の日本ハムを情熱で引っ張った熱血漢だった。
派手なプレーもインパクトを残す広瀬だが、89年の
近藤貞雄監督をして「天下一品」と言わしめた内野守備や、90年代の前半に一世を風靡した近鉄の
野茂英雄をフォームのクセを見抜いたことで得意とするなど職人肌の打撃も魅力。広瀬の前任も渋いプレーでチームを支えた内野手の
菅野光夫で、やはりドラフト1位で75年に入団して日本ハムひと筋、引退する85年までの11年間で「1」を背負った。
菅野の前が東映、日拓、日本ハムとチームの過渡期を「1」で過ごした
大下剛史。“暴れん坊”の異名を取り、荒っぽいプレーを持ち味としていた東映で、闘志を前面に出しながらも緻密な内野守備で異彩を放った斬り込み隊長だった。チームが東映だった67年に入団、日本ハム元年の74年オフに
広島へ移籍も、キャリアを通して「1」を背負い続けた大下は「1」を代表する選手の1人だ。
ただ、この大下までの「1」はオリジナリティーを好みそうなSHINJOもうらやむ(?)異色の系譜となっている。
投手に転じた変わり種も
王貞治の永久欠番となっている
巨人では前身の時代を含めて通算で7人のみというように、“チームの顔”ゆえに長期間リレーとなるのも「1」の特徴だが、セネタースとして46年に参加してから、1人が着けた期間よりも欠番だった期間のほうが長いという不安定さで、“最長”は51年から3年間の欠番。58年に2度目の欠番があり、翌59年に継承した
松本俊一が8年間と初めて長くなった。ただ、1年目から「1」を背負った松本も異色の選手で、67年に「16」へと変更すると、プロ10年目となる翌68年には投手に転向。打者としては68年も含めて通算62安打にとどまったが、投手としては68年だけで40試合に登板して2勝を挙げている。

新庄の後継者として07年から4年間、「1」を着けた森本
時は流れ、SHINJOの引退により同じ外野手で、いわゆる“新庄劇場”に欠かせないキャストだった
森本稀哲が翌07年に早くも後継者となったが、10年オフに森本が横浜(
DeNA)へ移籍したことで欠番となり、13年には同様に陽性のキャラクターで沸かせた外野手の
陽岱鋼に継承されるも、16年オフにはFAで巨人へ。その後継者が斎藤で、“ハンカチ王子”として甲子園を沸かせたときの背番号で復活に懸けるも故障には勝てず、この21年いっぱいで現役を引退。「1」が空席となったタイミングで監督として復帰が決まったのが新庄“ビッグボス”だ。「1」にも復帰するという宣言もあったが、果たして。
【日本ハム】主な背番号1の選手
大下剛史(1967~74)
菅野光夫(1975~85)
広瀬哲朗(1986~98)
SHINJO(2004~06)
斎藤佑樹(2017~20)
文=犬企画マンホール 写真=BBM