前田で輝き、鈴木で爆発?
広島で背番号「1」を着け、2000安打も達成した前田
広島が初めてリーグ優勝に輝いたのは1975年、初の日本一は79年で、いわば昭和の黄金時代といえる時期だが、その象徴こそ「8」の
山本浩二と「3」の
衣笠祥雄だ。これは、広島の“顔”といえるのは「8」や「3」だったと言い換えることができるだろう。ただ、86年オフに山本が、翌87年オフには衣笠が現役を引退すると、背番号の物語も幕を閉じる。新たな主役に「1」が躍り出るのに長い時間は必要なかった。
山本が監督として率いていた91年が20世紀で最後の栄冠。その91年に初めて規定打席に到達、翌92年から2年連続で打率3割を突破して、94年に「1」を背負ったのがプロ5年目の
前田智徳だった。「51」から「31」を経ての変更で、いきなり「1」に新しい歴史を刻みつけるかのように首位打者を争うと、翌95年にはアキレス腱を断裂する重傷も、その翌96年からも4年連続で打率3割を突破。その後も故障が続いたが、2007年には通算2000安打に到達。13年オフにバットを置き、最後まで打撃タイトルとは無縁だったが、常に自身の打撃とチームの勝利を追い求める姿勢は変わらず、他のチームで「1」に輝く好打者たちと肩を並べる存在となった。
背番号「1」で2度目の首位打者に輝いた鈴木
前田の引退で、しばしの眠りについた「1」。これを19年に継承したのが現役の
鈴木誠也だ。「51」でも前田の後継者だった鈴木は、16年からのリーグ3連覇を象徴する1人に成長して、満を持して「1」でも後継者となり、打率.335で前田の届かなかった首位打者に。この21年も打率.317で2度目の首位打者。最高出塁率も同じく2年ぶり2度目の戴冠だ。
古武士のような雰囲気を漂わせていた前田とは対照的に、25年ぶりVイヤーの16年には当時の
緒方孝市監督から「神ってる」という明言を引き出し、流行語大賞の獲得にも貢献(?)するなど、ド派手な活躍も印象的な鈴木だが、もともと広島の「1」はチームの中心にいた背番号ではあったものの、派手さはなく、いわば“チームの要”といえる系譜。打撃の職人と形容された前田は外野守備も秀逸で、プロ7年目の1983年から93年オフに現役を引退するまで「1」を背負った前任の
山崎隆造も攻守走に職人技を見せた外野手。機動力野球に象徴される昭和の黄金時代をスイッチヒッターとして駆け抜けた1人だ。
その前の4年間は右腕の
大久保美智男が着けたが、大久保は野手に転じると同時に「38」へと変更している。その前も同じ4年間ながら、広島を初のリーグ優勝に導いた功労者。
日本ハムから故郷に“凱旋”して、移籍1年目からリードオフマンとしてチームを引っ張った二塁手の
大下剛史だ。すでにベテランだった大下だが、闘志を秘めた攻守の職人技は広島の悲願に欠かせないものだった。
広島の歴史を凝縮
広島で13年間、背番号「1」を背負った古葉
大下とのトレード要員の1人として日本ハムへ移籍したのが広島の「1」でプロ1年目からの5年間を過ごした
渋谷通で、一本足打法の外野手。この前が、のちに監督として昭和の黄金時代を築いた
古葉竹識(毅)の現役時代だ。遊撃手、二塁手として低迷期を支えた古葉は2年目の59年に「29」から変更。選手としても機動力野球を体現、63年に
巨人の
長嶋茂雄と首位打者を争い、翌64年と68年には盗塁王に輝いている。古葉に「1」を託したのは、低迷する広島に馳せ参じてキャリア最後の6年間を過ごした歴戦の
金山次郎。移籍2年目の54年に「6」から「1」となり、翌55年にはプロ野球で初めて通算400盗塁に到達するなど、機動力野球の原点といえる存在だ。その前任は、のちに指導者としてもチームを支えた右腕の
野崎泰一で、53年シーズン途中から閉幕までと歴代で最短となる。
このとき「1」を野崎に譲り、兼任監督となったことで「30」となったのが初代だ。プロ野球1年目から巨人で活躍、故郷に誕生した広島の結成に参加した
白石勝巳。低迷ゆえに解散させられる可能性があった広島を存続させたのは白石の功績に他ならない。この数日、鈴木の去就も注目されているが、鈴木の答えはどうあれ、「1」が広島の歴史を凝縮した背番号であることは変わらない。
【広島】主な背番号1の選手
白石勝巳(1950〜53)
古葉竹識(1959〜69)
大下剛史(1975〜78)
山崎隆造(1983〜93)
前田智徳(1994〜2013)
鈴木誠也(2019〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM