野球以外のお仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、ヤクルト特集の今回は、78年の初優勝時のヤクルトの現役投手の一員で、90年代の黄金時代をコーチとして支えた上水流洋さんの『さつま料理 かご』を訪ねました。コロナに負けず、頑張れ! ※『ベースボールマガジン』2021年7月号より転載 プロ入り初登板で最初のバッターに……
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パンチ佐藤氏[右]、上水流氏
鹿児島商工(現・樟南)高では2年の夏、エースとして甲子園に出場。翌1971年秋のドラフトで近鉄バファローズに5位指名を受けたが、入団を固辞した。
「近鉄に行きたくないわけではなかったけれども、少し社会勉強をしてからプロに行ったほうがいいと思った」という上水流さん。高2のころから松永怜一監督が熱心に誘ってくれていた社会人野球・住友金属に進んだ。自身も社会人野球・熊谷組で研さんを積んだパンチさん。まずは社会人時代の話から斬り込んだ。
パンチ 社会人に行かれたのは、結果的に正解でしたか?
上水流 よかったと思います。あのとき初任給が5万円。高卒の初任給としてはいいほうでした。ただ、社会人1年目のオフにヤクルトが3位で指名してくれたので……。
パンチ 当時は、高卒社会人でも1年で良かったんですか?
上水流 良かったんです。ただ、松永さんは当時から社会人野球界に影響力のある方で、僕のプロ入りにあたって、「高校生が社会人に来て1年で上がっていくようじゃダメだ」とおっしゃっていたんですよ。その後、社会人からのプロ入りは大卒2年、高卒3年のルールができました。
パンチ 上水流さんが、そのルールを作るきっかけになっちゃったんですね。
上水流 実際はどうか分からないですけどね(笑)。2年連続でプロを断るのも嫌だったし、ヤクルトにチャンスをもらったので行ってみようかなと思った。会社には「もうちょっと我慢してくれ」と言われたんですが、プロでやりたい気持ちが、それに勝ちました。
パンチ 僕も、チャンスがあれば行ったほうがいいと思います。ヤクルトに入団したときの監督はどなただったのですか?
上水流 三原脩さんです。僕はどちらかというと独特な投げ方をしていたんですが、三原さんは投手コーチに「この投げ方でプロに入ってきたんだから触らず、このまま育てなさい」と言ってくださったそうですよ。
パンチ そういうところは仰木(
仰木彬=
オリックスほか監督)さんも三原さんに学んだんでしょうね。
上水流 やはりそうでしょうね。その子がどんなふうにしてプロに入ってきたか、そこはちゃんと見てあげなさい、ということですね。
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現役時代の上水流投手。1976年のキャンプのブルペンでの写真
パンチ プロに入って、最初の印象はいかがでしたか?
上水流 初めてブルペンに入ったとき、
松岡弘さんと
浅野啓司さん、あと
石岡康三さんだったかな、その3人が一緒だったんです。そのときの松岡さんの球のスピード、キャッチャーのミットの音……これはエライところに来てしまったと思いました。自分もスピードは19歳の若造なりに自信があったんですけれども、やはりエース級は違うんですよ。
パンチ 当時、ヤクルトの投手陣はどんな感じだったんですか?
上水流 「投手王国」と言われていた時代でした。松岡さん、
安田猛さん、石岡さん、浅野さん……。だから、ファームで結構投げて、完封してもなかなかチャンスはなかったですね。今のようにすぐ入れ替えではなく、ある程度一軍のピッチャーが固まっている状態で、しかも僕の1つ、2つ上の若手が
井原慎一朗さん、
鈴木康二朗さん、
西井哲夫さんと揃っていました。僕は結局、一軍では15試合しか投げられませんでした。
パンチ そんな中での、素敵な思い出というと?
上水流 一軍初登板(1976年4月23日)が
広島戦(神宮)で、初めて対戦したバッターが
衣笠祥雄さんだったんです。9回表にリリーフで出て、アウトコースの低め、自分なりにいい球を放ったと思ったんですが、それを見事にライナーでライトスタンドへホームランされました。
パンチ もうツメが鳴るような、ピシュッという球を投げたのに、カーンッと持っていかれた。衣笠さんといえば思いっきり尻餅をつくような感じで引っ張るイメージがありますが、ライトにも打つんですね。
上水流 そうなんです。打たれましたけど、すごく気持ち良かったです。それは今でも思い出しますね。
29歳でトレーニングコーチに
パンチ 現役引退にあたっては、どんな気持ちでしたか?
上水流 夢をもって、夢を追いかけて入ったプロ野球でしょう。途中で結婚もして、子どもも生まれて。3試合に先発させてもらって0勝3敗、全部負けましたけどね。ちょうど10年目、女房に話をしたんです。「今年で10年だし、もうそろそろクビになる年代だと思う。今年もう1回一軍に上がれるよう頑張るから、それでダメだったら一緒に鹿児島に帰ってくれるか」と。そうしたら「帰ります」と言うんで、その1年は本当に一生懸命、練習しました。練習が終わってもまだ走ったり投げたり練習して、家に帰ってからまた走ったり。トコトンやって、悔いのないようにしようと思いました。
パンチ 奥様も鹿児島の方なんですか。
上水流 中学校の同級生なんですよ。それで、10年が終わったところで案の定、球団に呼ばれました。そのとき武上(
武上四郎)さんが監督で、「一応ユニフォームは脱いでもらうけど、もう一度ユニフォームを着て、今度は指導者として頑張ってみろ。まず1年目はバッティングピッチャーをしながら勉強して、トレーニングコーチをやれ」と。
パンチ それはやはり、上水流さんが一生懸命練習する姿を、上の方々が見ていてくれたということですよね。
上水流 あとあと、「上水流だったら、そういう仕事ができるんじゃないか」とコーチの推薦もあったと聞きました。僕は練習が好きだったんですよ。自分の力のなさをなんとか克服しなければいけないと思って、いろんなことをやりました。もちろんそのときはコーチになろうと思って一生懸命やっていたわけではなく、とにかく野球で悔いがないようにしたかったからなんですけどね。
パンチ 10年で辞めてコーチということは、まだ29歳ですよね。難しさはありましたか?
上水流 まあ28、29歳のコーチなんて当時はいなかったですよね。コーチになったばかりのユマキャンプで、武上さんが急に「一軍を見ろ」と言いましてね。
大矢明彦さん、
若松勉さん、
杉浦享さん、とそうそうたるメンバーがいるわけですよ。でもそんな人たちを笛一つで「あっちに走れ、こっちに走れ」と動かさなきゃならない。そうしたらそのとき選手会長だった大矢さんが、「上水流は若くしてコーチになったから、みんな協力してやろう」とミーティングで言ってくれたそうなんです。それを人づてに聞いたとき、これは頑張らなきゃいけないと思いました。野球の実績はないけど、トレーニング方法だけは人に負けないコーチになろうと。
パンチ それもまた、先輩に恵まれましたね。
上水流 そういう面では、必死になるしかなかったですね。与えられた部署で、与えられた選手に誠心誠意接しながら、コンディションを整えようと思いました。
パンチ 上水流さんがコーチになられた1980年代のはじめは、ウエート・トレーニングもあったんですか?
上水流 本格的に始まる前でしたね。トレーニングが変わりつつあるときでした。だからオフはトレーニングの学校に通ったり、ちょうどユマキャンプのアリゾナにはパドレスの施設もありましたので、そこのトレーナーに聞いたりして、少しずつウエート・トレーニングも採り入れ始めました。
パンチ 一軍のトレーニングコーチを19年にわたってなさったんですね。その間の歴代監督というと?
上水流 武上さんに始まって
土橋正幸さん、
関根潤三さん、
野村克也さん、最後が若松勉さん。若松さんのとき、2001年に優勝して辞めました。
01年のシーズンが始まる前から、「今季限りで辞めよう」と決意していたという上水流さん。47歳になろうとしていた年、「このままコーチを続けていたら、50歳になっても60歳になっても、野球界にいなければ生活できなくなってしまう」と考えたためだった。
オープン戦で若松監督に「今年で最後にしたい」と話したが、引き留められた。球団にも夏前にシーズン限りの退団を願い出た。
ところがそのあと、チームは快進撃を続ける。リーグ優勝、そして日本一。若松監督にも球団にも再度引き留められたが、上水流さんの決意は固かった。
家族に助けられ3店舗まで拡大
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01年の日本シリーズで若松監督を胴上げする上水流コーチ[88]の背中。これを最後に退団し、飲食の世界に
パンチ そこまで固く決意して飲食店に携わろうと思ったのはどうしてですか。
上水流 この店はもう、40年ぐらい歴史のある店なんです。もともと鹿児島の方がやっていて、僕は客として来ていました。そうしたら、前のオーナーに「俺、もうトシなんで辞めようと思うんだけど、上水流さん、ここでやらない?」と言われまして。女房と話をして、野球もずいぶん長くやったし、これから先、また1年1年、クビになるかどうかヒヤヒヤしながら過ごすのも嫌だね、と。じゃあ、もう野球からは足を洗って、鹿児島料理をやってみようかということになりました。
パンチ お客さんもついてるし、味に関してもよく分かっていらっしゃるし、大勝利じゃないですか。きちんとやっていれば、ちゃんと運も回ってくるんですね。
上水流 人生において運の良かったところもあると思いますが、結局は人に恵まれたということでしょうね。あと、薩摩料理というところも踏ん切りがついた大きな理由ですね。
パンチ お店を引き継いだとき、前のご主人からのアドバイス、あるいはお願いなどはありましたか?
上水流 暖簾を受け継いで、屋号も『かご』のままで行くことになりましたので、「あとは任せたよ。なんとか頑張ってくれ」というくらいでしたね。ですから、あとは自分たちの色を出していけばいいのかなと思っていました。
パンチ 僕がお店に来たとして、おススメの料理、打順はどうなりますか? 一番バッターから言うと。
上水流 一番は鶏の盛り合わせ。二番は自家製さつま揚げ、三番・きびなご、四番・地鶏のもも焼き、五番は豚骨塩焼き……。
パンチ どれもおいしそうですねえ。きびなごがあるんですね。
上水流 刺身を酢味噌で召し上がっていただくんですよ。何もできない僕らがなぜ20年も店を続けられているかというと、こうした鹿児島の食材に助けられていると思います。
パンチ ファミリー経営と伺っていますが、逆にやりづらい部分はあるのでしょうか。
上水流 それがね、ウチはまるっきりないんですよ。反対に、家族に助けてもらっているところばかりです。
パンチ それではや、20年。姉妹店も出しておいでなんですね。
上水流 ここを始めたときは、私たち夫婦と長女、長男の4人。長男夫婦が隣に『きっちんかご』を出して14年。娘が『OHANAかご』を始めて7年になります。長男、次男とも嫁が今、子育てで店に出られないので、しばらくは3店舗を5人で回しているんですよ。自分たちでできる範囲で、なんとか頑張ろうという感じですね。だから反対に、誰かよその人が店に入る感覚がもうなくなっているというか(笑)。
パンチ このコロナ禍にあっては、ご家族で何か話し合って、なんとか乗り切ろうということになったのでしょうか。
上水流 2月の緊急事態宣言のころから、黒豚しゃぶしゃぶ、和牛のもつ鍋、カレー鍋の通販を始めました。子どもたちのアイデアです。
パンチ このコーナーで以前、元横浜の小林公太君のラーメン屋さんに行ったんですが、そこも通販を始めて好調だと聞きました。今の子は、頭がいいですね。
上水流 若い子のほうが、切り替えが早いですよね。
パンチ 今は耐えるしかないけれども、繁盛店で現役バリバリで働いていらして家族円満、お孫さんもいらして、プロ野球OBとしてはエース級のうらやましい人生じゃないですか。
上水流 そんな、そんな。ヤクルト時代に一緒にやってきた連中には「上水流さん、良かったですね」と言ってもらえますが、自分でこうなろうと思ってやってきたわけではなくてね。生活の一部としてやってきただけ。こうして毎日仕事ができて、生活していけることが一番ですから。
居酒屋の大将としての素敵な出会いに感謝
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『さつま料理 かご』の店内にて
パンチ こうなれたのは、何がよかったのだと思われますか?
上水流 僕もみんなに言われたのは、商売は自分が店に立って、マネジメントしていないとダメだよということ。同僚で何人か商売を始めましたが、店を閉めるのは人に任せて名前だけのところ。やはりお客さんは元選手がいつも店にいて、そこに行けば野球の話ができるし、おいしいものが食べられるというのが楽しみだと思いますので。だから僕は開店してからずっと店に立っていますし、自分がいることが商売だと思っています。あとは、人との出会いを大事にすることですかね。僕はユニフォームを着ていたときの出会いより、居酒屋の大将として店に立ってからの出会いのほうが、人情味があって好きなんです。
パンチ 僕もそうです。引退してからの、人との出会いは大切にしたいものばかりです。
上水流 そういう人間関係が心地いいし、自分のエネルギーにもなりますよね。
パンチ この仕事をやっている中で一番、「ああ、幸せだな」と思えるときはどんなときですか?
上水流 毎週1回、休みがあることですよ。それからゴールデンウイーク、正月も休み。プロ野球にいたころは、休みの感覚がなかったですもん。お店をやって初めて、連休なんかもできた。もううれしくてね。女房と手帳片手に「今度の連休はどこに行こうか」「ここで1泊しようか」っていうのが楽しいですね。
パンチ 試合は月曜休みでも、コーチは休みがないですもんね。
上水流 なかったです。毎日、出ていますから。だから、花見に出かけるのも、夢でしたね(笑)。
パンチ 今の、こういう普通の生活を幸せに感じられるのは素敵ですね。これからの夢はなんですか?
上水流 ここもそろそろ僕は引退かなと思っているので、そうしたら鹿児島の母校に帰って、ちょっと教えてあげたいなと思っています。まだアマチュア指導資格は取っていないんですけどね。僕、取ったらすぐやりたくなっちゃうんで、わざと取らないでいるんです。
パンチ やはり鹿児島には帰りたいですか?
上水流 どうなるかは分からないですよ。もうこっちのほうが慣れていますし。ただ、のんびりしたいというのはありますね。
パンチ そのときは、息子さんにバトンタッチを?
上水流 本当はね、コロナがなければ今年か来年、息子の代に譲ろうと思っていたんです。でも、今の状況ではね。あと2、3年は頑張らなくてはいけないな、と。子どもたちはもう早く譲ってほしいみたいですけどね(笑)。
パンチの取材後記
トレーニングコーチとして笛一つで年上の大ベテランから、やがては息子のような年代の選手に厳しいトレーニングを課さなければいけない。その19年間、幅広い世代に接してきた経験が今、飲食店経営に役に立っているのではないかと思います。
大繁盛の『かご』、料理はもちろんおいしいでしょう。でもいくら味が良くても、味に頼って店が古臭いままでは、お客さんの足も遠のきます。上水流さんのところはお子さん方が若い発想で、どんどん新しい風を入れているんですよ。僕、それを一つ発見しました。トイレが温水洗浄機付き。あれはポイントが高いです。
僕は6月、お店が再開されたら、必ず『かご』に行きます。僕は「行く」と言ったら、必ず行きます。だって活気があって、薩摩料理の美味しいお店だって分かっているんですからね。麦焼酎派の皆さんも、鹿児島の料理は芋で食べるとさらにうまい。ぜひ『かご』で試してみてください!
●上水流洋(かみずる・ひろし)
1954年3月8日生まれ、鹿児島県出身。鹿児島商工高から住友金属を経て、ドラフト3位で73年にヤクルトに入団した右腕投手。76年4月23日の広島戦(神宮)でプロ初登板も、最初に対戦した衣笠祥雄に被本塁打。82年限りで引退し、通算成績は15試合登板、0勝3敗0セーブ、防御率4.85。打撃投手を経て、84年から01年までヤクルト一軍トレーニングコーチとして黄金時代を支える。現在は都内で『さつま料理 かご』(東京都港区新橋3-17-5 タツヲビル2F)を経営。
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=犬童嘉弘