注文の多い助っ人?
球史で異彩を放つ大洋(現在の
DeNA)のグリーンとオレンジのユニフォーム。そこまでのインパクトはなかったかもしれないが、まるでジャブを食らったかのように、じわじわと効いてくる(?)のが、ロッテが1992年に採用したものだ。
地の色はホームでホワイト、ビジターではグレーに近いブルーと、そこまでは一般的。だが、ブラックの文字をピンクで縁取ったのだ。最近でこそピンクは女の子、みたいな固定観念は薄れつつあるものの、まだ当時は女性的な印象もあったピンク。92年といえばロッテが大洋もいた川崎から現在の千葉へ移転したシーズンでもあり、心機一転を象徴する色づかいだったのかもしれない。
ただ、これも前述した大洋のものと同様、短命に終わっている。大洋の場合は
山下大輔の入団を機に球団が変更したものだが、ロッテの場合は似て非なる事情だった。ある選手の入団によって変更されたのは同じだが、その選手がユニフォームの変更を要求したのだ。その選手とは、メジャー歴戦の
フリオ・フランコ。ピンクのユニフォームを気に入らず、これに注文を付けたのを皮切りに、背番号も他の選手が着けているものを次々に要求、最終的には
吉田篤史が承諾したため、その「21」を着けることで落着した。トラブルメーカーというだけで終わる助っ人も少なくなかった時代。だが、フランコは“革命児”といってもいい存在となっていく。

フランコが難色を示したピンクを使ったユニフォーム
独特の打撃フォームでも異彩を放ったフランコは、バレンタイン監督の退任で95年の1シーズンだけで帰国したが、選手会の要望で98年に「やり残した仕事に決着をつけるために」復帰。これだけでも異例なのだが、さらにはキャプテンに任命される。「やり残した仕事」、つまり優勝には悪夢の18連敗などもあって遠く届かなかったが、98年はロッテの地元ファンが急増したことでもエポックといえるシーズン。フランコはロッテが21世紀に躍進した原点といえる1年の中心的な存在だったことになる。フランコの入団で誕生したユニフォームも、デザインや配色の点で現在に連なるユニフォームの原型といえるものだった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM