「いろいろなことを経験したい」と来日
1990年代は、まだまだ「助っ人は本塁打あってこそ」という固定観念が強い時代だった。当時、一軍に登録できる助っ人は2人までと、非常に限られた枠だったことも背景にあっただろう。80年代の助っ人は投手より圧倒的に打者が多く、こうした事情に最も翻弄された選手の1人が大洋(現在の
DeNA)と阪神の2チームで活躍したパチョレックだった。
全盛期を終えた選手の来日も多かった当時、「若いのに、と言うかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて」(パチョレック)28歳で来日。プロ野球で成功を収めることになったパチョレックだったが、皮肉にも「いろいろなことを経験」することになる。大洋1年目から全試合に出場して、抜群のバットコントロールからリーグ最多の165安打も、17本塁打と長打は控え目。3年目の90年にもリーグ最多の172安打を放って打率.326で首位打者に輝いたが、やはり17本塁打だった。
このシーズンはチームメートで本塁打もあった
ポンセが不振。大洋は本塁打を期待してマイヤーを獲得しており、これに危機感を覚えたパチョレックは長打を狙って打撃を崩し、
大杉勝男コーチの助言もあって元の打撃に戻したことが戴冠につながっている。ただ、翌91年は無冠。11本塁打も来日4年でワーストながら、それでも打率.310の安定感だったが、オフに契約を切られてしまう。そんなパチョレックをトレードで交換の選手を出すことなく獲得することに成功したのが阪神だった。

大洋でもシュアな打撃を発揮していた
阪神1年目の92年は159安打で自身3度目のリーグ最多安打、長打も22本塁打と前年から倍増して、低迷期にあった阪神も2位に浮上。
オマリーとの助っ人コンビは躍進の原動力となった。だが、翌93年には阪神が台湾から投手の
郭李建夫を獲得。外国人枠を争うことを余儀なくされ、このとき世間を騒がせていた国連平和維持活動問題と3人のイニシャルを合わせて「阪神のPKO問題」と言われ、こちらもファンを騒がせることに。最終的には腰痛もあったパチョレックは持ち味の安定感を発揮できず、8月に帰国して、そのまま退団している。
文=犬企画マンホール 写真=BBM