職人肌の勲章

東京[ロッテ]1年目から背番号「2」を背負った山崎
プロ野球の背番号について語るとき、しばしば言われるエピソードが、
巨人V9時代に銭湯の下駄箱が「1」と「3」から埋まっていった、というものだ。たいてい文脈は「1」と「3」は主役の背番号、といった類のもの。「1」は
王貞治、「3」は
長嶋茂雄の背番号だ。これは多くのプロ野球ファンにとっては釈迦に説法だろう。いわゆる“ON”が「1」と「3」に並んだのは16年間で、この時期のプロ野球に両雄が君臨していたのは事実。一方で、その間の「2」を同じ時期に誰が着けていたかをスラスラと言える人は少数派だろう。かなりプロ野球の歴史に詳しい向きといえる(ちなみに
広岡達朗、
矢部祐一、
上田武司)。華やかな「1」と「3」に挟まって、どこか分の悪い印象のあるのが「2」の特徴。これは巨人に限った傾向ではない。
ただ、こうした地味なイメージを持ち味に、チームの底力となるような職人肌が「2」には並ぶ。いぶし銀のプレーがプロ野球を娯楽スポーツとして深みのあるものにしているのも間違いない。そんな「2」の究極といえる存在が、2チームで「2」を背負い続けた
山崎裕之だろう。20年のキャリアを通してチーム打撃を徹底、積み上げたのは2081安打。球史で渋い輝きを放つ名バイプレーヤーだ。
【山崎裕之】背番号の変遷
#2(東京・ロッテ1965~78)
#2(
西武1979~84)
昭和21年12月22日の生まれで、「1」と「2」に愛着があったという山崎。生年月日では優勢の「2」がプロでの背番号となった。上尾高では“長嶋2世”と騒がれ、11球団が興味を示して、もっとも早くから誘ってくれた東京へ1965年に入団した。このときの契約金は破格の5000万円で、これがドラフト会議を成立させる原因となったという報道も。事実とは異なるというが、それほど注目を集める存在だったという逸話でもある。3年目の67年に遊撃手として台頭するも、不動の地位を築いたのはチームがロッテとなった69年に二塁へ回ってからで、華やかさには欠けたかもしれないが、その頭脳的な二塁守備は秀逸だった。打っても初めて打率3割を突破している。
リーグ優勝2度、ロッテとなって初の日本一に貢献した山崎だが、地元の埼玉へ移転して生まれ変わった西武へ79年に移籍。「2」だった
西田隆広は「42」に転じて、山崎は西武の初代「2」に。遠からず黄金期を迎えることになる西武だが、山崎の貢献度は大きかった。
目に見えない好プレー

西武では83年に2000安打も達成した
九州では長く低迷していたチームということもあり、西武1年目には敗れた試合のあとに若手がジャンケンで洗濯物を運ぶ係を決めているのを見て「お前ら悔しくないのか!」と一喝したこともあったという山崎。ただ、自身はキャンプでの骨折や腰痛もあって、満足な結果を残せず。真価を発揮したのは西武2年目の80年からだ。82年には巨人の選手として「2」の先輩でもある広岡が監督に就任する。歴戦のベテランたちを痛烈に批判することで戦力の向上を図った広岡が唯一、何も言わなかったのが山崎だった。
そして、チームは西武となって初のリーグ優勝、日本一。山崎は「成績はたいしたことなかったけど、広岡さんが貢献度は一番と評価してくれた」と振り返る。翌83年はベテランながらリーグ最多の600打席に立って、やはりリーグ最多の30二塁打、自己最多の82打点。通算2000安打にも到達して、西武もリーグ連覇、日本一を達成しており。プロ20年目の84年オフに引退。チーム打撃の一方で、通算270本塁打という長打力も兼ね備えていた。
すべての打順を経験して、適応を見せた山崎だが、もっとも多かったのが背番号と同じ二番。やりがいを覚えたのも二番だったという。二塁守備でも、打者に分からないように守備位置を修正して定位置なら抜ける打球も好捕したり、低い送球で走者の減速を呼び込んで併殺を完成させたりするなど、目に見えない好プレーを連発した。極めつけは隠し球。成功は2ケタを超える名人でもあった。
通算2000安打を超えた選手でキャリアを通して「2」を背負い続けたのは山崎だけ。2000安打に届かずとも、「2」のみで現役を過ごした選手も、広岡ほか数えるほどしかいない。山崎の存在によって、「2」の持つ独特の滋味は、ますます深くなっているように見える。
文=犬企画マンホール 写真=BBM