303打数99安打、31本塁打

全盛期真っただ中で来日し、メジャーの四番のパワーを見せつけたホーナー
1987年のペナントレースが開幕して1カ月ほど。低迷期にある
ヤクルトで1人の助っ人がデビューした。2試合目の
阪神戦(神宮)ではゲーム3本塁打。このとき阪神の一塁を守っていたのは前年まで2年連続で三冠王となっていたバースだったが、そのバースをして「なんであんな選手を連れてきたんだ」と言わしめた。
ボブ・ホーナーだ。
当時、外国人の選手といえば、大きく分けて、メジャーの経験は少ないが日本のプロ野球に適応できそうなタイプか、メジャーの実績は豊富だが全盛期を過ぎているタイプかのどちらかということが多かったが、ホーナーはメジャーのブレーブスで四番打者を務めて、すでに通算215本塁打。しかも来日した時点で29歳と、全盛期の真っただ中にあった。
ゴールデンウイークにデビューしたこともあって、そのインパクトは列島を貫いたといっても過言ではない。若手への刺激という面でも大きかったといわれ、このときヤクルトでは
池山隆寛が4年目、
広沢克己が3年目で、のちの主砲コンビ。1990年代にヤクルトは黄金時代に入るが、その萌芽のひとつはホーナーの存在と考えることもできそうだ。
だが、シーズンも中盤に入ると、ホーナーからは笑顔が消え、いつもイライラするようになる。ゲーム終盤には「若手にチャンスをやってくれ」と引っ込みたがるようになった。最終的には93試合の出場。それでも31本塁打を放っている。規定打席に届かず30本塁打を超えたのはプロ野球で初めてのことだった。そしてオフに退団。当時を知るファンには現在でもインパクトを残す助っ人だが、プロ野球でのキャリアは1年にも満たない。
このときヤクルトを率いていたのは就任1年目の
関根潤三監督で、「練習が嫌いだったなぁ」とホーナーを回顧する。また、「外国人の多い六本木ではなく、新宿に家を用意したことが最大の失敗。夫人が孤独に耐えかねて、ホーナーも神経質になった」とも。退団にはさまざまな憶測も飛び交ったが、少なくとも外国人の選手にはグラウンド外でも苦労が絶えなかったのも事実。これも“ホーナー旋風”が1年で終わった一因かもしれない。
文=犬企画マンホール 写真=BBM