「新人王を狙っていきたい」

快速球が売りだった84年、ヤクルトのドラフト1位・高野
新人が開幕戦に出場するハードルは高い。特に投手、それも開幕投手を任されるというのは異例のことだ。最初のドラフト会議は1965年オフのことで、このとき指名された選手は基本的には翌66年の新人となるわけだが、以降、新人の開幕投手は長い間、なかなか現れることがなかった。最初のケースが1983年の秋、第19回ドラフト会議でヤクルトから1位で指名された右腕の
高野光だった。
東海大浦安高から
原辰徳(のち
巨人)らがいた東海大へ進んだ高野。3年生のころから快速球で注目されるようになり、4年生の秋、ドラフトではヤクルト、大洋(現在の
DeNA)、阪急(現在の
オリックス)、
西武の4球団が競合する。抽選で交渉権を獲得したのはイの一番で高野を指名したヤクルトで、前年の
荒木大輔(早実)に続いて強運を発揮、「意中の球団でした。チームの力になりたい」と高野は語った。と、ここまでは前途有望の新人に見られる一般的な流れといえる。ただ、高野はアリゾナ春季キャンプにオープン戦と順調、というよりはハイペースな仕上がり。快速球も150キロに近づき、「将来のエースじゃない。すでにその力はある」と
武上四郎監督は語り、「俺はツイてるかもしれんな」とニンマリ。これが開幕投手につながった。
当時のヤクルトは78年のV戦士でもある
松岡弘や働き盛りの
尾花高夫ら右腕がいたが、のびのびと若い戦力が育っていくヤクルトの気風を象徴するような大抜擢。高野はドラフトでも指名された大洋を相手に4イニングを投げて4失点、勝敗はつかなかった。「カーブが決まらないとみると、その後のストレートをうまく狙われた。さすがプロはうまい」と高野。そのまま先発に定着して、プロ初勝利を完封で飾ると、8月は無傷の4勝、これは9月にかけて5連勝となり、最終的にはノルマともいえた2ケタ10勝で閉幕した。
当初は「新人王を狙っていきたい」と語っていた高野だったが、最後は「大学と違って調整が難しかった。途中で2ケタ(勝利)はあきらめてました。ホッとしました」。新人王は優勝した
広島の
小早川毅彦に譲っている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM