日本一を決める試合でも大抜擢

98年の開幕戦で先発し勝利を飾った川村[右はマラベ]
「あいつのインテリジェンスに懸けたんです。優秀な高校から、頭で立大に入って、日本石油に入って。全部、自分の力で切り拓いているんです」
1998年4月3日の開幕戦。横浜(現在の
DeNA)で開幕投手を任されたのは
川村丈夫だった。オリンピックでも活躍して1年目から2ケタ10勝を挙げるなど即戦力となった右腕だが、まだプロとしては2年目。まさに大抜擢だった。その理由を
権藤博監督が振り返ったものが、冒頭の言葉だ。そして、「わけも分からないうちに」(川村)
阪神を相手に1安打完封勝利。ここから横浜は38年ぶりリーグ優勝、日本一へと突き進んでいく。
ただ、川村は後半戦に入ると伸び悩んだ。この98年の投手陣で、不動のエースといえる存在は不在。左腕の
野村弘樹と右腕で2022年からDeNAのチーフ投手コーチを務める
斎藤隆が13勝ずつ、現在の監督でもある右腕の
三浦大輔が12勝で、いわば“三本柱”だった。そこに左腕の
阿波野秀幸、右腕の
五十嵐英樹に
島田直也らがセットアッパーのローテーション。最後を“大魔神”
佐々木主浩が締めくくるのが勝ちパターンだった。
一方、川村は8勝6敗と、勝ち越しはしたものの、“三本柱”に続く“第4の男”という結果に終わる。それでも、3勝2敗で迎えた
西武との日本シリーズ第6戦(横浜)で、川村は先発のマウンドに立つことに。日本一が懸かった大事な試合での、ふたたびの大抜擢。その理由を「ここまで来たのは(開幕戦に勝った)あいつのおかげなんだから、ここで投げてもらおう」というものだったと、権藤監督は振り返っている。そして、「とにかく必死で」(川村)7回1/3を無失点で投げ抜いた川村。そこから阿波野、佐々木とつないで、横浜は日本一に。川村は勝利投手こそ逃したものの、日本一を呼び込む好投だった。
翌99年は自己最多の17勝を挙げた川村だが、その翌2000年にはリーグ最多の12敗、02年には故障で勝ち星なし。リリーバーとして完全に復活したのは05年で、30ホールドをマークした。このときの
木塚敦志、
加藤武治、
クルーンとの救援カルテット“クアトロK”でも記憶に残る。
文=犬企画マンホール 写真=BBM