近鉄監督就任初年度に、あの「10.19」。翌年にはリベンジを果たし、リーグ優勝に導いた。“マジック”とも言われた自在な采配が注目されるが、その真実は、いかに個々の選手の個性を引き出し、輝かせるかにあった。 「10.19」で敗れて

近鉄時代の仰木監督
1988年10月17日、バスの中でナインが野太い声を張り上げ、近鉄の応援歌を歌っていた。西宮球場での阪急戦に敗れたあとだ。シーズンの残りは
ロッテの3試合だけとなっていた。優勝のためには、もはや引き分けすら許されない。翌日から敵地・川崎球場でシングル、ダブルの3試合。泣いても笑ってもそれですべてが決まる。その日は京都で宿泊し、翌朝、川崎に向かうことになっていた。お通夜のように静まり返るバスの中で、
仰木彬監督が「歌でも歌わせろ」と
大石大二郎に声をかけた。いつの間にか缶ビールも皆に回されていた。
18日の第1試合は大勝、19日の1試合目は逆転勝ちだった。そして運命の第2試合、一度はリードするも、追いつかれ、時間切れの引き分け……。選手はグラウンドで号泣。仰木監督の目も充血していたが、グラウンドでは涙はなかった。
翌朝、タクシーで「永遠の恩師」と慕う
三原脩の墓前で手を合わせたあと、球団が準備した正午の記者会見に現れる。仰木監督は濃い色のサングラスをかけていた。広報に言われてそれを取ると、目の周りが痛々しいほどはれ上がっていた。
恩師・三原監督の“伝承作業”
北九州の筑豊地方に生まれ、育った。東筑高時代、エースとして甲子園に出場。54年、三原監督の西鉄へ入団した。キャンプでは二塁に転向させられ、連日、猛烈なノックを受けた。1年目からレギュラーとなり、その後の黄金時代の欠かせぬ一員となった。野球だけではない。遊びも相当のもので、三原のもとへ毎日朝10時に通い、説教を受けた時期もある。「野球だけではなく、人間の組織、集団の話などいろいろしていただいた」と仰木。さすが希代の名将。若者の未来を見据えての“伝承作業”だったのだろう。
70年、三原が監督となっていた近鉄のコーチに招かれたが、三原は1年で退任。以後、
岩本堯、
西本幸雄、
関口清治、
岡本伊三美のもとでコーチを続けた。実現しなかったが、80年に一度、西本監督から「次は仰木」という話もあった。18年のコーチ生活を経て88年監督就任。今では信じられないが、当時、「仰木では地味だ」と反対意見もあったという。就任会見では「目標は将来につなぐために若い選手を育成し、勝つこと。私は三原さんから知を学び、西本さんから情熱を学んだ。おふたりを足したような野球がやりたい」と抱負を語った。
近鉄監督2年目に悲願達成
仰木監督は選手に刺激を与えた。遊撃手の
村上隆行を外野に回し、遊撃は若手の
吉田剛と
真喜志康永を競わせた。打線を頻繁に入れ替え、投手陣では前年わずか17試合登板の
吉井理人をストッパーに抜てきし、目まぐるしい継投を見せた。4月22日の
西武戦では加藤哲を4回二死、無失点で交代。非情の采配と言われたが、「確率どおりに当たり前のことをやっているだけ」と意に介さなかった。
運もあった。シーズン途中、
リチャード・デービスが大麻事件で退団する代わりに
中日の二軍から獲得した
ラルフ・ブライアントが打ちまくり、逆にプラスとする。いつしか恩師の三原同様、“仰木マジック”という言葉も定着した。
2年目の89年はしっかり優勝を目標に据えた。まずは打倒西武を掲げ、他球団にも「西武包囲網」を呼びかけ、マスコミを使ってあおった。
オリックスが走るとすぐ狙いを変え、オリックス・
上田利治監督と舌戦を交わしたこともある。西武、オリックスとの三つ巴の戦いは最後まで続いたが、10月12日、西武とのダブルヘッダーでブライアントが奇跡の4連発。この連勝ではずみをつけ、10月14日、藤井寺のダイエー戦に勝利し、優勝が決まった。
試合後、仰木監督はインタビュアーからマイクを奪い、「私はいま選手の手によって宙に舞わせてもらいましたが、私は、私の手で選手一人ひとりを胴上げしてやりたい気持ちです」と興奮気味に叫んだ。それは2年にまたがる壮大な大河ドラマのフィナーレでもあった。日本シリーズでは3連勝から4連敗の屈辱もあったが、「まだまだチャンスはこれから」と思わせる若い力と魅力を持ったチームだった。
オリックスでは日本一に

オリックス監督の96年、日本シリーズで巨人を破って胴上げ
90年には
野茂英雄をドラフトで引き当て、その独特のフォームを矯正することなく、育てた。結局、2度目の優勝はかなわず、92年限りで退任したが、94年に就任したオリックスでは今度は
イチローの育ての親となり、2度の優勝、96年には巨人を破り、日本一に輝いている。
その後、解説者生活を経て、2005年に球界再編問題の中で誕生したオリックス・バファローズの初代監督になった。それは火中の栗を拾うかのような困難なものに思えたが、仰木は「懐かしいチームに戻ってきたなと思います。近鉄という55年の長い歴史、素晴らしい歴史もそうですし、まだ新しいですが、オリックスというチームの歴史。それぞれの歴史を一緒にさせて継承していきたいと思います。私自身、燃えるものを感じています」と静かに抱負を語った。
実は、肺がんの闘病生活にあり、とても監督という大役を務める体力はなかったが、「グラウンドで倒れれば本望」と弱音を吐くことはなかった。そして2年連続の最下位から4位に浮上させ、オフの退任。その2カ月後、死去した。
写真=BBM