華やかな話題の陰で深まる苦悩

三塁を守るイチロー。一度の守備機会を無難にこなした
1999年、
オリックスのイチローは話題も豊富、調子も良かった。4月20日には史上最速の1000安打を達成。5月は8日から17打席連続無安打の自身ワースト記録があったにもかかわらず、月間打率.414。16日には
西武の
松坂大輔との初対決もあった。
6月13日のダイエー戦では珍しい三塁守備も見せた。7回裏、オリックスは三塁の
大島公一に代打のロベルト・ペレスを送ると、続く8回表には
仰木彬監督が大島の退いた三塁へイチローを回す。仰木監督は「普通なら
佐竹学か
塩崎真だが、2対6と負けていたこともあり、右の代打を温存したかったから」と言う。95年の東西対抗で一度あるが、公式戦では初めて三塁を守ったイチローは「せっかくだから楽しませてもらいました」と笑顔を見せた。7月6日には松坂から通算100号本塁打。7月の打率は.420で5月に続き2度目の月間MVPとなっている。
ただ、華やかな話題とは裏腹に、イチローは悩んでいるようにも見えた。96年の日本一以降、オリックスの観客動員は減少傾向にあり、イチローも、よほどのことがなければ騒がれなくなっていた。開幕前、「自分のすべきことが分からない」ともらしたこともあったが、次の目標が見えづらくなっていたことは確かだろう。それはまさに天才だからこその悩みだった。
閉塞感の中でメジャー挑戦の夢がどんどんふくらんでいたはずだ。FAはまだ先だが、オリックスは97年、
長谷川滋利を金銭トレードでエンゼルスに放出するなど、選手のメジャー移籍に前向きな球団でもあった。2月にはマリナーズのアリゾナ・キャンプに留学し、より身近にも感じていた。
8月になると全身に原因不明の湿疹ができ、打率も降下。そして24日の
日本ハム戦(富山)の7回裏に
下柳剛から右手甲に死球を受け、翌日から戦線離脱。3年目の開幕戦から続いていた連続出場は763試合でストップした。その後、シーズン終了まで復帰できず、すでに規定打席に達していた首位打者は6年連続で獲得したが、同様に5年連続で続いていた最多安打には届かなかった。
離脱の間、メジャーへの移籍話が進んでいると伝えられたが、10月12日の最終戦で来季もオリックスでプレーすることを明言。ただ、「情熱が衰えたわけではない」ときっぱり。2000年が日本でのラストイヤーになる予感はあった。
写真=BBM