「打てなかったらつらい」ものの
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“スーパーカー・トリオ”の三番を担った屋鋪
長く低迷していた大洋(現在の
DeNA)の歴史で異彩を放つ“スーパーカー・トリオ”。一番から並んだ
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要ら3人の韋駄天のことだが、三番を打った屋鋪は“トリオ”の最年少だった。1985年当時の球界で最速の脚力を誇る屋鋪だったが、それまではスイッチヒッターとしてコツコツ当てて塁に出るタイプの打者で、脚力と守備の人、という印象があったのも事実だ。
そんな屋鋪の三番という打順に、加藤は「(
近藤貞雄)監督の選手を見る目が素晴らしかったんだよ。出塁率の豊、勝負強さの屋鋪。三番に起用してもらって、屋鋪は大きく野球をとらえられるようになって、とてもプラスになったと思う」と言うが、一方で高木は「豊さん三番を打ってくれ、って言ってきたことがあっただろう。打てなかったらつらい、って。ふだんは絶対に弱音を吐かないのに、マジでやってるんだなぁ、と思ったね」と振り返る。これに対して屋鋪は「そりゃあ、そうですよ。ひどいなあ」と笑うが、塁上にいる2人の先輩をかえす役割の重荷は想像に難くない。
ただ、この2人も「“トリオ”のあとの四、五、六番がクリーンアップといわれていたのに、屋鋪はクリーンアップの意識でやっていた」(高木)、「屋鋪はスパイクのことも考えていたよね。みんなが皮のスパイクを履いていた時代に、最初に人工皮革のソフリナを履いたりして。人工芝用と土用で、歯にも工夫してたし」(加藤)と、後輩への目配りを欠かさなかった。
一方の屋鋪も「豊さんと加藤さんで一、二塁なら、たとえ当たりが悪くてゲッツー崩れでも、豊さんと僕で一、三塁になったとしたら、僕が走って二、三塁にできる」という、別の意味での安心感のようなものがあったという。屋鋪はリーグ2位、トリオでは最多の58盗塁をマークした一方で打点が急増。自己最多の78打点を稼いでいる。もちろん、これに高木と加藤の“生還率”が貢献しているのは言うまでもないことだろう。
翌86年も前半戦は“トリオ”も健在だったが、加藤が故障で離脱すると事実上の“解散”。わずか1年半ほどの“活動期間”ながら、その印象は鮮烈だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM