
60年以上にわたって「ドジャースの声」として数々の名場面を実況してきたスカリー氏。94歳で天寿を全うした
ビン・スカリー氏が最後にドジャースの実況アナを務めたのは、
前田健太が入団した2016年シーズンだった。
1月、ドジャー・スタジアムに2万5000人が集まったファン感謝デー。67シーズン目の16年が最後と発表していたため、ファンはステージに立った当時88歳のスカリー氏に、選手に勝るとも劣らぬ大声援を送った。
ロサンゼルス市は、長年の功績に敬意を表し、球場に向かう道路、エリシアン・パーク・アベニューをビン・スカリー・アベニューに改名すると発表。ドジャー・スタジアムの住所も「1000ビン・スカリー・アベニュー」となった。スカリー氏は「恥ずかしくて隠れたい気持ち。2年前、市長に言われたときは拒んだが、最後なので」と笑顔で話した。
甘美な声に叙情的な描写。プレーボールのときは「IT'S TIME FOR DODGER BASEBALL」の決まり文句で、
野茂英雄、
黒田博樹もスカリーの名調子とともにドジャースでの第1球を投じた。
「日本人が来るようになって長い。ジャイアンツのマッシー村上に始まったんだからね。日本人投手にはエキサイトさせられるし、ワンダフル」とかつて話してくれた。
1927年、スカリー氏はアイルランド系移民の息子としてブロンクスに生まれた。子どものころはジャイアンツファンだった。ドジャースアナの職を得たのは50年で、大学を出たばかりの22歳。当時のブルックリン・ドジャースは47年から56年までの間に6度もリーグ優勝を果たす黄金時代で、ジャッキー・ロビンソン、ピー・ウィー・リース、デューク・スナイダー、ギル・
ホッジス、ジム・ギリアム、ロイ・キャンパネラら永久欠番選手がたくさん出た。
ウォルター・
オマリーオーナーが58年に球団をブルックリンからロサンゼルスに移すと、一緒に大陸を横断している。以後、半世紀以上、彼の声はTVやラジオを通してロサンゼルスの人たちに親しまれてきた。
球史に残るシーンは繰り返し流される。88年、ドジャース対アスレチックスのワールド・シリーズ第1戦。ケガをしていたドジャースのカーク・ギブソンが足を引きずりながらアスレチックスの絶対的守護神、デニス・エカーズリーからライトに代打本塁打を叩き込んだ。
「IMPROBABLE(本当とは思えない)な年に、IMPOSSIBLE(不可能)なことが起こりました」
約1分間、映像を見せ、観客の大歓声を聞かせたあとの詩的な描写は、多くのアメリカ人の心に刻み込まれている。
74年、南部アトランタでハンク・アーロンがベーブ・ルースの本塁打記録を抜いたときの言葉は、博愛主義者と呼ばれた彼らしかった。
「野球界にとってなんて素晴らしいときでしょう。アトランタの街とジョージア州にとっても、合衆国や世界にとってもいいことです。黒人選手が南部の町でスタンディングオベーションを受けています」
彼の引退後、ドジャー・スタジアムの記者席は「ビン・スカリー・プレスボックス」と名付けられた。筆者もそこで長年、記事を書けたことを名誉に思う。頭が下がるのは92歳でSNSを始めて、ファンと再び交流し始めたこと。そして去る8月2日、94歳で天寿を全うしたのである。
文・写真=奥田秀樹