古くからクジ運のない巨人

77年のドラフトでクラウンから1位指名された江川
1965年の秋に始まったプロ野球のドラフト会議。それは紆余曲折を経ながら、少しずつ形を変えつつ、現在に至っている。騒動も少なくないが、もっとも大きな波乱となったのが78年の秋、第14回のドラフトだろう。主役は“怪物”
江川卓と
巨人だが、両者ともドラフト会議に不在という、後にも先にもない事態だった。
現在の感覚では想像しにくいかもしれないが、古くから巨人を熱望する選手は多かった。地元の球団がない地域では巨人しかプロ野球チームを知らない、そんな光景が当たり前だったこともある。プロ選手として故郷に錦を飾るためにも、巨人ブランドは輝かしい存在だった。江川より前にも、68年には法大の
田淵幸一には巨人との“密約説”がささやかれ、明大の
星野仙一には「田淵がダメなら君だ」という口約束もあったと言われる。結局は
阪神へ入団した田淵も事前に「巨人でなければ入団しない」と宣言しており、星野は
中日で巨人を倒すことに燃えた。
一方、近年もさることながら、巨人はクジ運が悪いことには定評(?)があった。実際に、作新学院高で“怪物”の異名を取った江川を狙っていたという73年の秋にも、このときは指名の順番をクジで決めていたのだが、巨人は10番目。6番目の阪急(現在の
オリックス)が先に江川を指名してしまい、もともと江川も大学への進学を希望していたこともあり、江川は法大へ進んだ。とはいえ、もし巨人がクジ運に恵まれ、江川を“強行指名”していたら、のちの“事件”には至らなかった可能性もある。ちなみに、このとき巨人は1位から3位までの選手に入団を拒否されていて、この屈辱も78年の江川との強引な“契約”の遠因だったかもしれない。
次に江川がドラフトの対象となったのが77年の秋。巨人の指名は2番目だったが、1番目のクラウン(現在の
西武)が江川を指名してしまう。会議を前に「江川くんを巨人へ入団させるために、ほかの球団は指名を見送ってほしい」などと政治家が発言したことも事態を混乱させたといわれる。江川はクラウンの本拠地が九州は福岡にあったことで「九州は遠い」と入団を拒否。浪人の道を選んだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM