元南海─大洋の佐藤道郎氏の書籍『酔いどれの鉄腕』が2月初旬にベースボール・マガジン社で発売される。 南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀、門田博光、コーチ時代の落合博満、村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。 不定期で、その内容の一部を掲載していく連載の今回が第2回である。 「ミチ、ウエート・トレーニングと思えばいいよ」

『酔いどれの鉄腕』表紙
今回も「第2章南海時代」より、門田博光についての箇所を抜粋する。
1970年、南海同期入団で、本塁打王3回、打点王2回の大砲。アキレス腱の負傷から奇跡のカムバックを遂げ、40歳にして本塁打王、打点王を手にした88年は「不惑の大砲」と騒がれた。
門田は俺と同じ年のドラフト2位入団だった。若手時代の門田で思い出すのは、遠征の移動。
1年目、新人でずっと一軍にいたのは俺と門田だけだったけど、昔は用具係なんていなくて、若手が遠征で荷物持ちをした。俺はピッチャーだからニューボールを1ダースくらいだったけど、門田は60球くらい入るボールケースを持ち歩いていた。バッターは自分のバットもあるから大変だったと思うよ。
しかも東京遠征だと、先輩は東京駅に着いたら、「宿舎まで頼む」と、俺たちに荷物を預けてしまうんだ。そのまま銀座にでも飲みに行くんだろうね。2、3人分は当たり前さ。俺が「冗談じゃないぞ。自分の荷物くらい自分で持てよ」とブツブツ愚痴っていたら、門田が「ミチ、ウエート・トレーニングと思えばいいよ」って。
そのとき「お前、変わってるな」と言ったけど、心の中では「ああ、こいつ俺と違う。すげえな」と思った。
門田は、とにかく徹底していた。野球に役立たないことはしない。付き合いもそう。チームの選手会長なんて頼まれても絶対にしなかったからね。あれが本当のプロだと思うよ。
俺はチームの選手会長をやらされた時期があるけど、やりながら、「これって、ほんとは選手がすることじゃないな」と思っていた。プロは自分の力で結果を出し、待遇をよくしていくもんだしね。変わり者と言われようと、門田みたいに現役のうちはプレーにだけ集中したほうがいい。
それにさ、俺が選手会長になってチームを引っ張ると言っても、抑えピッチャーは、いつも登板が勝ち負けに直結するでしょ。自分が打たれて負けたとき、「元気出していこう!」なんて、とても言えんよ。
門田の打撃練習は今の選手に見てほしかった。あいつはすごいよ。今はみんな気持ちよく、来た球をカンカン打つだけでしょ。でも、門田は時々、わざとタイミングを崩し、先にステップして体勢を前に出して待ったりする。あいつは左打ちだけど、それでためてセンターから左中間に打ち返すんだ。実際のピッチャーは打撃投手みたいに簡単に打たせてくれるわけじゃないからね。
あいつはプロでコーチをしたことがないと思うけど、今からでも遅くないから、一度は、どこかの球団でコーチをやってほしい。
あんなにバッティングを突き詰めて考えたやつは、ほかに落合博満(元
ロッテほかの大打者)くらいしか知らん。絶対、いいバッターを育てると思うんだけどな。
第2章「南海時代」より