元南海-大洋の佐藤道郎氏の書籍『酔いどれの鉄腕』が2月4日にベースボール・マガジン社から発売された。 南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀、門田博光、コーチ時代の落合博満、村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。 これは不定期で、その内容の一部を掲載していく連載である。 プレーオフ最終戦の思い出

『酔いどれの鉄腕』表紙
今回は、書籍化の際、佐藤さんの南海時代の盟友・江本孟紀さんにお願いした推薦文を再録する。
フクちゃん(
福本豊。阪急)もそうですが、僕らは同学年、1947年生まれの団塊の世代で、プロに入った連中はたくさんいます。ミチはその中で目立っていた選手の1人でした。
僕は彼と違って社会人を経由してプロ入りし、東映で1年やったあと、南海で一緒になりましたが、ミチもそうだし、法政大学で一緒にやっていた黒田(
黒田正宏)、堀井(
堀井和人)もいた。
同じくらいの年齢の選手がたくさんいたので、ノムさん(野村克也兼任監督)にチクチク怒られながらも、最初からやたら居心地がよかったことを思い出します。
同世代は、みんな仲はよかったですが、夜はそれぞれバラバラ。みんな朝まで帰ってこないのは同じですけどね。僕ら2人は少々目立ち過ぎたのか、ノムさんに「しめしがつかんから寮を出ていけ」と言われ、籍だけ置いて出て行きました。
ミチは1年目からリリーフエースとしてチームの柱になっていました。僕は先発でしたが、お互いに競争し合って、それがよかったと思います。
ミチはよく「エモのリリーフはタイミングが分からん」と言ってました。僕はコントロールが悪かったから、フォアボールで崩れるかと思ったら、急に三振を取りまくったりしていたので、確かに準備は難しかったでしょうね。
僕が逆にミチのリリーフをしたのが阪急とのプレーオフです(1973年)。リーグ優勝が決まる第5戦の9回裏二死ですね。2対0からミチがソロ本塁打を打たれ、1点差になったときです。
ノムさんは交代を嫌がるミチを、僕が準備できてるからと言って説得したみたいですけど、そんなのウソ。何もしてなかった。
スパイクは履いていたけど、グローブと帽子もなかったですからね。それに僕はこのプレーオフ、1戦目にセーブ、2日前は完投ですよ。それが2対0の9回裏に登板の準備をするわけないじゃないですか。
ただ、あの本塁打で球場の雰囲気がガラリと変わったのは確かです。ノムさんは雰囲気を変えなきゃと思って交代させたんだと思います。
こっちは勢いだけで、ストライクがまったく入らなかったけど、バッターの高井(
高井保弘)さんが力んで勝手に振ってくれました。
語り出すと、いろいろありますが、これはミチの本なので、また違う機会とします。
発売前に読ませてもらいましたが、当時の南海の野球と今のリリーフのあり方を見直す、いい本だと思いました。
あと、ミチの店が最近暇みたいなんで、一度、遊びに行ってやってください。(2022年12月)