江川、西本、鹿取、中畑……

1979年の長嶋監督
プロ野球の各チームもキャンプ、その中から選ばれし精鋭たち、WBCに出場する侍ジャパンのメンバーもキャンプ。2月といえばキャンプのシーズンだ。
侍ジャパンは日米のプロ選手から選び抜かれたメンバーで構成されているが、その昔、現在の侍ジャパンより少ない人数が1チームから選び抜かれ、そのメンバーの多くが新しい時代を築いた伝説的なキャンプがあった。とはいっても春ではなく、秋。いよいよ1980年代という79年オフ、
巨人の伊東キャンプだ。巨人のキャンプで伝説的なものは、どういうわけか春ではなく秋のもの。プロ野球“元年”の36年オフに群馬県の茂林寺で行われたものが元祖で、この伊東キャンプとともに“地獄”と形容される。ただ、伊東キャンプは“地獄”というには明るく、若かった。
まず、率いていた
長嶋茂雄監督が43歳だ。もちろん選手たちも若い。その時点での実力よりも、将来性や潜在能力を買われた若手たちを将来の主力として鍛え上げるべく選ばれたメンバーだった。プロ野球のオールスターに日本人メジャー・リーガーも加わる豪華メンバーに比べれば、当時は圧倒的な人気のあった巨人とはいえ、地味なメンバーだったはずだ。

1979年、秋季伊東キャンプでのミーティングの様子
だが、名前を挙げていけば、そのほとんどが80年代に主力となり、テレビ中継の黄金時代にブラウン管で躍動した面々。現在から振り返ると、豪華な顔ぶれだ。79年シーズンは9勝の
江川卓に8勝の
西本聖、リリーバーとしての地位を確立しきれていない
角三男に
鹿取義隆、レギュラーをつかみかけたばかりの捕手の
山倉和博、内野の
中畑清、
篠塚利夫ら。のちの“青い稲妻”
松本匡史は手術から復帰したばかりで、このキャンプで外野手、そしてスイッチヒッターに転向した。
その最終日、坂道ダッシュで檄を飛ばす長嶋監督に篠塚が思わず「自分が行ってみろ、この野郎!」と叫んでしまったが、これに長嶋監督が乗っかってダッシュ、若いナインたちに大きく遅れてゴールインしたという逸話も残る。長嶋監督は翌80年オフに退任したが、その翌81年、世代交代を遂げた巨人は4年ぶりリーグ優勝、8年ぶり日本一を飾っている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM